忠光農園 |
純朴な土壌の上に繁栄を培う 忠光農園
麗しき山水が流れる両班たちの故郷、忠清道。陳しい山並みの中に欝蒼と生い茂る松林を目にすると、ふと新緑の季節の到来を感じさせてくれる。京釜線の列車に乗って芙江駅で下車し、その昔、祖先たちもさぞかしおいしそうに飲んだであろう芙江薬水を通り過ぎ、京釜線の線路に沿って、七・五kmの道程を走って行くと、やがて右手に五十度近い傾斜の山裾に立つ忠光農園の全景が見えてくる。忠清北道・清原郡・芙蓉面・登谷里に位置するこの村では、四十二世帯、百三十五人の村人たちが素朴な夢を培いながら暮らしている。
何年か前までは、現在のような本格的な畜産業ができずに、シイタケ栽培などで生計を維持しながら漠然とした生活を送っていたが、若い指導者のパク・ウテク氏が中心となって、傾斜角五十余度の山裾をショベルカーなどの重装備を駆使して開拓し、現代式の寄合を建設するとともに本格的な畜産業を行ない出した。まだ、数字的には他の定着村には及ばないが、質的には一番になろうと日々努力している。
百三十五人の村人が全力投球しているこの村の畜産規模を見ると、鶏が五万匹、豚が千余頭で、決して多くない数字ではあるが、国内第一の生産高にして行こうという意気込みは大変なものだ。畜舎ごとに土壌が階段状に造成されているために、鶏糞の匂いがほとんど出ない構造になっており、それが無公害畜産物の生産に適した環境を作り上げている。また、たとえ歴史は短くとも自立の意志を育てて行こうと努力する忠光農園では、常に若い人々が柱となって、飛躍的な発展を重ねている。中部圏の核心都市である大田と清州が村からわずか三十余分の距離に位置する忠光農園は、畜産物の流通の面でもちょうど繋ぎ目の役割を担っており、経済的に見ても遠からず前を行く定着村を圧倒するような勢いを持つようになるであろうと展望される.
一九七〇年代初期、一般社会に適応できなかったハンセン氏病快復者たちが一カ所に集まり、セマウル農園を発足させ、キム・ドウホァン氏(当時の代表者)を中心として共同生活を行ない始めて以来、自立の意志を抱いた人々が集まり出した。そして、一九七三年六月十五日に村の共同会館を建設し、その三年後の一九七六年五月一日にはチェ・クァンシク氏が中心となって「新進農園」として正式に登録をし、村の基盤整備に情熱を注いで行った。その時、国立療養施設から退院して定着したハンセン氏病快復者たちと共に、一九七六年五月二十五日には教会も建てて、神様に祈りを捧げ、信仰生活を始めるに至った。その時、精神的にひどく気弱にならざるをえなかった彼等に下された神様の御言葉は、沃土に根を下ろした一粒の種となり、その後、数百倍の果実を実らせて行った。そして、固い信仰を基に肉身的な願いを至らしめようとする彼等の意志は、村に瞬く間のうちに多くの変化をもたらした。
一九七七年十二月一日、チョン・ソング氏が中心となって、村の名前を「忠光農園」と改称するとともに、十六世帯に増えた村人たちのために新しい生計を営み始めた。その翌年には、当局からの融資によって八棟の住宅を建設し、シイタケ栽培なとて、生汚苦を減らして行けるよう努力を積み重ねた。そして、そのように忠光農園に「開拓の春」が訪れると、全国から健康な人々が一人二人と集まり始めたため、限られた土地は飽和状態となった。
現在、四十二世帯が所有している耕地面積は全部で一万一千坪で、一家塵あたり二百五十坪にしかならないのが実情である.このため意欲に満ちた若い世代が、事業を拡大して行けずにいる。さらに、近隣の農地や林野を購入しようとしても、地主らが土地をなかなか手放さないでいるのも悩みの種だ。そこで国有林をなんとか開墾してみようとしたのだが、これも山の傾斜がきつくて大変な作業とならざるをえなかった。しかし、地理的に見てもいろいろと良い条件を備えており、四十代前後の若い人々が集まって、純朴で健全な夢を培っている忠光農園は、遠からず自立してあらゆる困難を克服して行くだろうと私は確信している。健康な肉体と健康な精神さえ兼ね備えれば、どこででも発展して行く事ができるだろう。そして、キリスト教に立脚した隣人への愛と勤勉な生活は、この社会の暗い所を明るく照らす役割を充分に果たして行くものと思う。 既に長老となり第一線の指導者でなくなったが、チャン・ソング、ウォン・ジェウ、キム・シナ長老も裏から若い指導者たちを支え励ましながら、より良い生活のために目に見えない努力をしてる。
そのように日々神様に祈りを捧げ、徹底した信仰生活を通して喜びの生活を営む忠光農園の人々にとって、一年に一度めぐって来る農場設立記念日は、何よりも嬉しい日であるという。毎年五月二十五日。この日が訪れると全村民が農場を空けて、村の近くを流れる錦江の白い砂原に行って、皆で野遊会をする。去る五月二十五日にも、全村民がこの川原に集まり、相撲とサッカー、綱引きなどの簡単な体育行事をして遊んだ。他の定着村のように、外から地位の高い客を招いたりはしなかったが、気ままな一時を過ごす事ができてとても楽しかったようだ。定着村で老弱男女が一カ所に集い、食べ物を分かち合いながら喜びを共にする時間というのはとても意味深い事であろう。「ある時は、教育問題などで教育当局と摩擦も起こしたが、村から二・五kmほど離れた所にある芙江の学校へ通う子供たちも、今や他の地域よりも経済力が上まわっている我が村の状態を考えれば、それほど問題となる事はないし、自立の意志を持ち、熱心に生活している我々の姿を見れば、ハンセン氏病に対する偏見もなくなって行くだろう」と、代表者であるパク・ウテク氏は言う。忠光農園の代表者として、また指導者として働いて来て五年近くたつパク・ウテク氏は、忠光教会の執事として、教会の運営も引き受けている人物だが、全国的にも彼の名前を知らない人はいないほどリーダー・シップに秀でた人物である。彼が初代会長を勤めた「全国定着青年連合会」を、今も陰から見守っているパク・ウテク氏は、定着村に住む青年たちの正しい生活感に対していつも気を配っている。
畜産規模から見ても占有面積から見ても、まだまだ小さい農場であるが、秀れた若い人達によって、忠光農園はあらゆる面において先頭に立てる地域として、今後も発展して行くであろう。最近になって畜産を本格的に試み出しているが、他の定着村とは違い、この村では養豚に多くの力点を置いている。「現在は六十五対三十五程度で、養鶏に比べてまだまだ比重は小さいが、体系的で優秀な施設を備えた養豚業にやがては取って変わる事だろう」と、村の常務であるチェ・ジェヨン氏は語る。大ヨークシャー、ランドレース等、優秀な種母豚を確保して、肉質と肥料効率の良い豚を生産して行こうとする姿は、他の定着村も見習うべきであろう。畜産業界の趨勢を見ても、これからは忠光農園のように体系的な経営方法を導入して行かなくてはならないと思う。優秀な種母豚と産卵能力に秀で病気にも強い品種のヒヨコを確保して科学的な経営を行なってこそ、不況をもたらさない畜産業を展開して行く事ができる。先進国からの畜産物輸入圧力や、大規横業者などが次々と飼育規模を企業化して行っている現時点では、定着村もこれに遅れを取らないように対策を充分に立てて置かなければならない。多くの情報を活用し、経営の合理化、能率化の先預に立つ忠光農園の姿から、今後「量」よりは「質」を前面に押し立てた畜産を行なえるという可能性を見る思いがした。
困難な課題も多かろうが、村の指導者を中心にして一致団結し、根気強く仕事を押し進めて行けば、現在抱えている債務問題も解決し、今後は外への信用が資本となって、多くの実を結んで行けるであろう。両班の気質を抱いた純朴な土壌の上に立つ忠光農園の全ての事業が、みごとに実を結び、純粋で正直な気質が他の多くの定着村へと伝わって行く事を心から祈りながら報告を終えたい。
[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]