自立の意志の中に発展する 聖生農場
さわやかに伸びた京春街道を走り抜け金谷を過ぎると、まもなく磨石へと通じる峠にさしかかる。ハンドルを握りながら車窓の外に目をやると、道沿いにはまるで天を突き上げるようにしてアカシアの木々が立ち並び、渓谷の清水は白い水しぶきを弾かせながら涼しげに流れている。
今から三十余年前、それまで一般社会から冷遇を受けて来た十余名のハンセン氏病治癒者が、土地を耕しながら生計を営もうという決意を抱いてこの地にやって来た。当時は自由党政権に対する学生たちの反対運動でソウルは騒乱状態に陥っており、また、その一方では多くの人々が飢餓線上にあえいでいた時代だったため、山中に分け入り土地を耕しながら衣食住を解決しようとした彼等の試みも、耐え難い程の大きな苦痛を味わわざるをえなかった。彼等はハンセン氏病に対する一般の人達の偏見によって社会に同化する事ができなかったため、山中に分け入り、同じ立場の仲間たちと共に土地を耕して行かざるをえなかったのだ。
しかし、近隣の地域住民たちの根強い反対運動は、彼等の心をいつも不安気にした。天幕を張って体を休ませられる場所を作ると、思いもかけない時に襲撃して来て、天幕を引き裂いてしまい、絶えず気を休める暇を与えないように妨害した。でも、彼等としてはここまで来てこのまま追い出されるわけにはいかなかった。何回か追い出されかけたが何とか抵抗を続けて土地にしがみついていた頃、当局の定着村事業が推進され始め、やっと緊張から解放されるようになった。そして、関係当局がソウル・京畿地域を始めとした定着村の人々に対して養鶏事業を指導し始めると、さっそくそれを受け入れる事にした。彼等は鶏小屋を建てるという嬉しさの中でそれまでの心の痛みを全て忘れ去る事ができた。何ら持つ物もなく、できる仕事もないという絶望の中でようやく見つけた仕事の種は彼等にとって千金よりも貴重な物だった。一般の人達は彼等の事を無条件に嫌って冷遇をしていたが、家畜たちはそんな人達と違って無言の励ましをして彼等を嬉しがらせてくれた。そして、このような生活の中で、彼等は序々に勇気を得、しっかりと生きて行けるという確信を持つようになった。
一九六六年六月三十日.当局の方でもここを正式に定着村として指定するようになり、いろいろ
と支援をし始めた。そして、当局の支援を受けながら節約に勤めた彼等の生活は、日を追って変貌して行き、当初、十余匹前後だった鶏が数百匹に増え、鶏卵の販路もだんだんと伸びて行った。
その後もきちんと節約しながら施設を増やし、熱心に努力して行った結果、農場を始めてから十余年も経たないうちに、京畿道一帯の内で最も比重の重い養鶏団地として、噂が立つようになった。初めの項は無視していた飼料業者や商人たちも先を争って集まり始め、一般農家の方へもしばしば出荷するようになった。それはこれまで感じてみる事さえできなかった実に喜ばしい出来事だった。
定着後三十余年が過ぎた現在の聖生農場は、百四十九世帯、五官六十一名の村人が三十万匹の産卵鶏と六千三百余頭の豚、四百五十余匹の非肉牛を飼育する大畜産団地へと変貌している。峠を越えて脇道に入ると、雄大な畜舎群が目に入って来るが、所々に立っているフィード・ピンがその畜舎群の規模を物語る。広く捕装された村道を大型車両が出入りして鶏卵を積み、飼料運搬車両がJ隠時行ったり来たりしながらフィード・ピンをつけるのだ。村の中央に位置した共同会館には畜産組合と会議室があり、その中で奔走しながら働いている村人の姿は、若者から老人に至るまで皆、活カにあふれている。
また、一九六六年十月三十日に設立された聖生教会を中心にして誠実な信仰生活をしている五百六十余名の村人は、過去の病弱だった時の事を忘れ、来世に対する願いを膨らませながら、日々感謝の心をもって生きている。そして、神様とともに歩む祝福された生活の中で健康を取り戻し、物質的な余裕も持てるようになった。
しかし、全ての事に満足できないのが人間に共通した欠点のようである。心と精神がぜい弱だった時には、実の兄弟より深い友情で結ばれていた同僚たちと些細な事で争いを起こすようになり、一時はそれが聖生農場を暗くした事もあった。今では過ぎた話として皆忘れてしまった事であるが、その時の波紋は今だに消えずにいろいろな人々の記憶の中に残っている。去る入五年から村の行政を担っているイ・ギルヨン代表を中心として、ソ・ヨンス開発委員長などの幹部たちが毎日のように集まって農場の発展のために協議を行ない、村人の和合のために努力をしているので、まもなく跳躍のための転機が訪れる事だろうと思われる。
どの定着村を問わず最も緊急の問題として持ち上がっているのが、畜産廃棄物処理施設の問題である。聖生農場の場合は、近隣地域の住民たちの反対よりも、この廃棄物が漢江に直接流入する事の方がもっと心苦しい問題である、と指導者たちは口を揃えて言っている。しかし、畜産は生業のためとても中断する事はできないし、また、廃棄物処理施設を自分たちの手で作るとしてもその建設予算を充分に賄えないため、これまで行政当局に数回にわたって建議をしてみたのだが、はっきりとした回答を聞けな
いでいる。農場の立場としては、年老いた村人が大部分なので、体力をたくさん必要とする畜産を中断して、他の業種に転換して行きたいのだが、それさえも関係法令の規制によって不可能であるという。
最近、環境問題などのために首都圏から押し出された中小企業が建物の貸賃を要請して来ているが、そのほとんどが建築許可を受けられない状態であるという。地域的にも首都圏の上水道源として規制を受ける事が多く、生業にも痛手を受けている状態を、当局もよく把握してきちんと対処してほしいと期
待している聖生農場の指導者たちの表情は暗い。
また、聖生農場が早急に解決しなければならない問題として、もと一つ養老対策がある。現在、七十名近い養老対象者の余生に対して何の対策もなされないまま、老いた体で養鶏と養豚のその日暮らしをしているのが実情だ。現在、聖生農場内には百余名を収容する事ができるハナ養老院が建設されているが、まだ保健社会部から認可を受けられないため、受恵人員は一人もいない状態である。志ある社会事業家の努力によって建てられた養老院が、他の定着村の養老施設とは違って、当局からの受恵を今だに受けられずにいるというのは誠に口憎しい限りである。
また、子供たちの教育問題でも彼等の心を痛ませるような出来事がよく起こるという。他の地域の子供たちとは逢って、村の子供たちは農場の中にあるノクチョン分校で初等教育を受けているが、そこではいろいろと制約が多く心理的に萎縮したり、卒業しても何の因縁か近隣地域の中・高等学校へは進学する事ができないため、やむなく多くの負担を払ってソウルヘ進学させるようになるという。「このように心理的な不安の中で育った二世たちが経験する痛みも大きいが、大学を出ても就職先がない著者たちの問題も極めて深刻だ」と語るイ・ギルヨン代表は韓星協同会でも就職指導のために対策を立てているが、「このような問題が早く解決すればよいのに」言って溜め息をついている。
しかし、安定期から跳躍期に入った聖生農場は行く手を適るいろいろな問題や障害を賢く克服して自立へ向けて跳碓し、どこにも引けをとらないような高所得の村へと今後とも成長して行く事だろう。これまでの些細な問題を全村民が和合をもって一掃し、一人一人が担うべき責任と国民の義務をしっかりと行ない、また、聖生農場の真の姿を世の中に知らせて行かなければならない。そして、このような問題が解消され定着村の真の姿が人々の前に現われる時、ハンセン氏病に対する認識も新たまって行くだろうと思う。
[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]