純朴な畜産人の指り籠 クムホ農場
慶南の西北山間地域に位置しているハムヤン郡は、数年前までは交通が不便な奥地だった。南には智異山国立公園の勇壮な山々があり、北には徳裕山国立公園に囲まれていて、さらに降雨量が多い地帯としても知られている。しかし、一九八四年に八八(パルパル)高速道路が竣工されると、ここは新しい観光名所として形を変えて行った。秀麗な山々と共に滑らかな水が流れるこの土地は、多くの人々の関心を引くのに充分であり、また、統一新羅と高麗時代の遺跡地もそこかしこに散らばっていて、民族史研究においても重要な部分を占めている。
*ハンセン氏病患友たちの定着
六・二五動乱(朝鮮戦争)によって社会的混乱と不安定が続いた一九五〇年代初め、十余名のハンセン氏病快復者たちが一般の人たちの目線を逃れるようにして、この土地にやって来た。
深山幽谷へ分け入った彼等は、やっとの思いで土地を手にした後、近隣を俳回しながら食生活の問題を解決し、狭い土地を耕して行き始めた。たとえ人間的な待遇を受けるられなくとも、自活意欲と固い決意を胸に抱いて熱心に働き始めたが、そこにはたくさんの試練が待ち受けていた。険しい野山を耕す道具もない上に、戦乱のために劣悪になった民心は荒れ放題になってしまっていたためだ。そして、心身共に軟弱となった彼等は天を仰いで、健康な身体と共に晴れ晴れとした心で生きたいという強い望みを神様に懇願した。
その頃、当局からの積極的な支援の下に始まったハンセン氏病治癒看たちの定着事業は、このような絶望を踏み越えて行くための新たな転機となった。また、これによって新たに十余名の村人が加わり、共に共同生活をしながら生計を立てている彼等にとって、その農業所得は取るに足らない物だったが、貴重な物である事に変わりはなかった。一九六八年.初めて土地を買い入れて、そこにジャガイモやサツマイモなどを植え、それを収穫した時に感じたあふれるような感情は、本当に純粋なものだった。膜の帯をぐっと縮め、少しずつ貯めて行った金で豚と鶏を飼って生きていた彼等は、それまで他人の土地を借りながら農業をしていた事を清算して、畜産に主軸を置いた生活へと変更して行った。
一九七六年五月.ついに自らの手で畜産組合を結成し、養豚により所得を高めて行った彼等の心は、まさに広々とした大通りを走る抜けるような気分だった。日増しに増えて行く子豚を眺めながら、明日を設計する彼等には羨む物は何もなかった。病の苦しみを克服できた事に対する感謝、生活の安定を与えてくれた事に対する感謝、希望に満ちた明日を聞かせてくれた事に対する感謝で、彼等は毎日のように神様の前に祈りを捧げた。
しかし、神様は彼等に困難も与えた。去る一九七九年、急に襲って来た養豚波動の試練がそれだ。子豚が増えても育てて行く事ができないために、そのまま死ぬのをただ傍観するしかないという苦痛を味わわされた。小さな規模で始めた養豚だったが、その波紋は大きく広がり出し始めた。国家から与えられる保護糧穀にだけ頼っては生きて行けないため、日増しに暮らし向きが暗たんとしたものになって行った。彼等は毎日のように神様に一日も早く生活の安定と共に苦痛に耐えられるカを与えて下さいと涙
を流しながら祈願した。そして、やがてその願いが聞き入れられる時が来た。
*エンマ・フライジンガー女史の支援
西独救癩協会とカトリック皮膚科医院を通して、国内のハンセン氏病息友たちの世話を見て来たエンマ・フライジンガー女史が、彼等のつらい境遇を知り、養鶏施設資金と収容経費を支援してくれた。教派を越えた真のキリストの愛が善を施し、失望して気力をなくした彼等に新しいカを呼び込んだ。彼等は「今でもエンマ・フライジンガー女史の恩恵を忘れる事はできない」「彼女を通して恩恵を下さった神様に感謝を捧げる」と請っている。
畜産規模を拡張して、既存の養鶏農家に遜色のない最新式の施投を備えた彼等は、心を一つにして養鶏に情熱を注いで行った。時折、失敗して積害を被る事があっても、熱心に働きながら生きている彼等にとって、一家屋当たり数千匹以上の鶏たちがその所得源になっている。
現在、クムホ農場の三十五世帯、百二十七名の村人が飼っている鶏は、全部で六万余匹いて、近隣地域では目にする事ができない程の大養鶏団地へと変貌して行っている。そればかりではなく三百余頭の豚と七十余頭の牛も、彼等にとっては貴重な財産として所得を高めてくれている。また、飼料も全村民が一緒になって一つの会社の製品を購入しているが、他の地域に比べて比較的安い価格により安定した供給を受けている。しかし、その一方では彼等が生産し出す畜産物の流通過程が単調で、多くの被害を受けているという残念な側面もある。例えば、卵の場合で言うと、消費層が多い晋州市へ出荷しようとするのに、消費量が限定される上に、出入りの商人が一人で独占してしまって横暴をしばしば働いている。「困難な境遇にある方々を助ける」という口当たりの良い言葉を前に押し立てながら、ここで生産し出す卵のほとんどを一方的に処理してしまっているため、彼等としては全く抗弁できない立場に立たされている。
*住民たちの宿願事業である橋の建設
そのようにクムホ農場の住民たちが音産物の出荷時に、商人たちの横暴を受けながらも抗弁をできないのは、第一に交通の不便さがその理由として上げられるという。
クムホ農場の前には水深が三メートル以上にもなる濫川の上流が流れているために、ちょうど目の前に国道が通っているにもかかわらず、安義邑の方へ約十km程迂回しなければならないという不便さを経ている。
そのためクムホ農場と国道を連結する橋を設置すれば、このような問題も容易に解決できるはずだが、わずか五百余メートルにすぎない工事であるにもかかわらず、川の流れが速く、橋脚の設置に困難があって手易く着手する事ができないため、今だに実現には至らないでいる。しかし、クムホ農場を始めとして近隣の住民たちが経る不便を少しでも解消するためにも、一日も早く具体的な予算が確保されなければならないであろう。ここに橋を設置すれば、ハムヤン郡・水東面・サンベク里とネベク里・池谷面・南孝里、シモク里、安義面・イジョン里など、周辺の村落が互いに連結され、五百余世帯、二千余名の住民たちの不便を解消する事ができるというのに、年ごとに建設が延期されているのが実情なため、至急解決する事を求めたい。
*昨年も水害で一億五千万ウォンの被害
クムホ農場の前の橋脚設置の必要性は、去年の暴雨と台風の被害を見てもよくわかる。橋が設置されていたならば、前もって被害を減らすための対策を立てられたのに、明らかに防止できた被害をただじっと見過ごしてばかりいた。周囲が大きな山に囲まれているため、集中豪雨が降れば、必ず一回は水害を受けるので、橋さえ設置されていたならば手易く身を避けて被害を減らす事ができる方法がいくらでもあったはずなのに、残念でならない。去年の夏は格別に多くの雨が降り、瞬く間に鶏舎と家屋が水をかぷって、多くの被害を出したが、その時の鶏畜舎と鶏、飼料などの被害額はおおよそ一億五千万ウォンにも達したという。
*農場指導者を中心とした団結
どの定着村を問わず、和合と団結が成されていない所は発展が退く摩擦が生じている。比較的長い歴史を持っているクムホ農場であるが、それでも、ここにしっかりした体系を築いて、村人が団結し合えるようになったのはそう長くないという。パク・ドンジン長老がここに移って意欲的な事業を展開する事によって、全村民が今ではお互いが心を一つにして生きて行けるようになった。農場指導者は常に我が身を捧げるような犠牲的な生活でもって村人たちのために働き、また村人たちも指導者の指導路線を固く信じて従っている。
クムホ農場の自慢の種としては、まず借金のない畜産経営を上げられるが、大きな欲を抱かないで能力に見合った畜産を行なっている。チェ・ソンナク韓星協同会・慶南支部長は「慶南地域二十九個の定着村の中で現在の生活は中位に属するが、最も安定した経済力を築いて行ける村として今後とも発展が期待される」と語っている。
素朴な畜産で安定を探って行くクムホ農場が、あらゆる面において充実した結果を得て、彼等を利用しようとする商人たちの非人間的な商魂や薄っペらな権某術数が一日も早く根絶され、また、彼等の宿願である橋も農場前に建設され、気楽で進取的な生活が続いて行く事を願ってやまない。
[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]