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信愛農場の父と母

稲葉充利

信愛農場へ向かう市内バスは、庶民でいっぱいだった。
気さくなおばさん二人と仲良くなり、おばさん達は僕のヘタな韓国語の揚げ足取りに笑い転げた。しかし、こんなド田舎に、母国語を話す外国人が来たというのは、まるで宇宙人を見るような驚きだったに違いない。
「これからどこまで行く?」
「シネウォン(信愛園)です」
僕は胸を張って答えた。信愛に向かう道のりで郷土愛のような想いが膨らんできたのである。
「シネウォン?」
一人がきょとんとする。
「シネウォンって?」
「ほら、ナビョン(ハンセン病患者)の」
もう一人が答えた。するとそのおばさんの表情が露骨に変わった。
「ああァ、あのナビョンのところにだって!?」
おばさんは、バスの他の乗客にわざと聞こえるように声を上げた。
「この人はシネウォンに行くんだってさ。ナビョンの、ほら」
おばさんは、それから、
「どうしてそんなところに行くんだい?」
と、不憫なものを見るような目で僕を覗き込んだ。「村の人と親しくなって」
僕は答えた。が、おばさんの表情は変わらない。
「友達になって」
「なぜ」
と首を振るハンセン氏病快復者と友達になるという神経が信じられないという聞き方だった。
「去年、奉仕活動で村に来て、それでまた会いたくて」
「あァ、奉仕・・・」
おばさんは納得したようだった。
「奉仕活動ねぇ」
ともう一度っぶやいた。
・・・奉仕活動。なんて気恥しい言葉だろう。本当は、奉仕なんかで行くんじゃないのに、と僕は思った。しかし、奉仕というパッケージでまず括らないと、人は理解してくれないのだ。相信農場など、定着村の人達でさえ僕らキャンパー一行を「奉仕団」と呼ぶ。

バスの中から、なつかしい村が見えてきた。
信愛農場のバス停で降りたのは僕らキャンパー7人だけだった。
そのときふと、ある疑問が浮かんだ。
あのバスの中にもし信愛農場の人が同乗していたら?村の大人であれ、子どもであれ、もしそうだったとしたら、バスの中でのおばさんの態度をどのような思いで見ていただろうか?そして僕に、おばさんに対し何と言って欲しかったのか?
あるいはひょっとして…。
あのバスに信愛の人が乗っていたのだけど、あの視線のなかで降りることができず、次のバス停まで乗って行ったのかも知れない。そういう事もありうる?考えすぎかな?
叫びたいときに「それは違う!」と叫べない人達。叫ぶべき時に会っても、押し殺して生きて来ただろう人達。でも僕は、いつか胸のすくうな叫びを聞きたいと思った。

再々訪になる。
村に入っていく一歩一歩は、いっも緊張する。
「ここを自分の故郷と思いなさい。この家を自分の家と思いなさい」
そう言ってくれる人がいるから、僕はここに来る。
信愛農場には、僕の韓国の父と母がいる。
アボジ(父)は戦前、高校時代を日本の佐賀県でおくる。
勉強もスポーツも一番だったという。戦後、朝鮮の陸軍士官学校でも成績優秀。後の大統領朴正熙とも机を並べた。しかし、この頃から指先がおかしくなる。
「一人は大統領に、一人はハンセン氏病でこういう所へ」
とアボジは笑う。
両手の指がない。わずかに残った指の付け根でタバコを挟んで吸う。
高校時代、校内マラソン大会で四百人中、一番になった足にも、指がない。よたよた歩く。
「我が家は村で一番貧しいです」
とアボジは言う。家の現金収入は、三頭の養豚だけ。指のない手では畑にクワをふるうこともできない。
「うちは貧しいです。しかし、心はお金持ちです」
新しい日本のキャンパーがアボジの家を訪れると、アボジはみんなと上機嫌に酒を飲む。そしていつもこの言葉を吐く。

以前、秋キャンプのとき。
キャンパーの一人が風邪をひいてアボジの家で寝こんだ。
アボジはバイクを走らせ町まで風邪薬を買いに行った。アボジのバイクは指がなくても運転できるように工夫されていた。
帰ってくるなり、僕はアボジにその薬代を払おうとした。が、アボジは激しい口調で拒絶した。
「今眠ってるあの子のからだは、この私のからだなんだ」
そして、静かにこう付け加えた。
「心配しなくていい。うちがいくら貧しくてもそのくらいのお金はありますよ」
後になって聞いた話だが、アポジはしかしそのお金を人から借りて買いに行ったそうだ。オモニ(母)が、そのお金のことで僕に泣きついてきた。今、家にはまったくお金がなく、返せる当てがない、と。
僕はアボジを、これまで出逢ったことのない崇高な老人として尊敬し始めた。病気が人を純粋にする、貧しさが人間を崇高にする、とまで思わせてくれた決定的なものは、家の壁に貼られた、古ばけた、「忍耐」と書かれた紙だった。それは、さながら家訓のような厳かさで、色あせて、なお、へばり付いていた。
「忍耐・・・」
と僕が目をやると、
「どうやって書いたと思いますか?」
とアボジが尋ねた。
アボジは指のない手で、自分で書いたという。
僕は黙った。
「この手に筆をあて、ゴムをぐるぐるに巻きつけて固定して、こう、書きましたよ」
アボジは言った。
「うちは貪乏でお金がないです。だから.言いますよ、お金を使えないのだから、忍耐を使いなさい」
「忍耐」という文字が鮮烈に僕の胸を打った。なんという人生の真実、
それを僕らは、くもりある生活のなかで見失っていた。アボジの透明な眼と生きざまがそこにあった。
「私は辛いですよ」
アボジは続けた。
「これではお金を稼げないでしょう!?」
指のない両手を僕の目の前に突き出した。
「私は辛いです」

どこかで聞いた話だが、我が子に与える最高の教育とは、ほどほどの貧乏だという。そして親は子どもに、それを申し訳なく思う気持ち。これが、子どもを育てるという。アボジの教育は、ほどほどの貧乏ではない、かなりの貧乏であるが、アボジにはそれをどうすることも出来ず、すまなく思っている。
この家には高校生の息子がいる。
あの「忍耐」の教育のなかで、息子であるキユは、どのように育っているのだろうか?

アボジ、オモニに初めて出会ったのが去年の夏。
それから日本に帰って、僕は手紙を書いた。
書き出しを「韓国のお父さん、お母さん、お元気ですか」
しばらく して、来るはずのないと思っていた返事が届いた。
字の読めないオモニ(母)が、僕の手紙をいたく喜び、村人に「日本の息子から手紙がきた」と自慢してまわった、と書かれていた。
生まれて初めて届いたエアメールがどれだけ嬉しいか、もらったことのある人なら分かるはずだ。オモニは59歳。貧しい片田舎に住み、そういうこととはおよそ無縁で人生を終わってもおかしくなかったのだ。こんなハプニングをキャンプは可能にしてしまうのだ。

アボジからの返事。
アボジの毛筆のハングルは、小刻みにふるえていた。
僕はアボジの指のない手を思い、この手紙がどのように書かれたかを想像した。
「この手に筆をあて、ゴムをぐるぐるに巻きつけて固定し・・・」
その様を目に浮かべて。

・・・いったいどれくらいの時間をかけて書いてくれたのだろう。
手紙を読む僕の手も、感動でふるえた。

「いやアー、今日は嬉しいねえ」
と言うと、さっそくアボジは酒を出した。
一緒に来た日本人キャンパー達と、家を訪れた。
「アー、気分がいいねえ。お酒、飲みましょう」
底抜けの正直さで、アボジは喜んでくれた。
そして、焼酎をガッと飲みはし、カーツと息を吐いた。
「アー、ほんと気分がいいよ」

最近、アボジの酒の量が限界を越えているらしい。オモニがいきなり愚痴をこばした。
「日本の奥さんも、お酒飲んで暴れたら、家を出てくでしょう?」
アボジは、暴れてテレビを壊し、ラジオを壊し、電話機も壊した。指のない平手で叩き壊した。オモこは家を飛び出し、大邱(テグ)の縁者の家に6日いた、という。
それを聞いて正直僕は驚いた。たしかに今までもオモニが「この人は、酒大将ですよ」と、たどたどしい日本語で冗談めかしてからかうときはあった。
しかし、アボジが酒にそこまで変わるというのには耳を凍った。
「酒は、ウサを晴らしてくれます」
とも、今回のアボジは言った。ウサ?
ウサとは何だろう?酒に酔い、暴れ怒った苛立ちとはどこから来るのだろう?崇高で、静ひつな老人という目で、これまでアボジをとらえ過ぎていたのかも知れない。

なるほど、家にはテレビもラジオもなくなっていた。しかし、それより、僕ことって残念だったのは、あの「忍耐」の紙が消えていたことだ。部屋の壁紙が新しく貼り付けられ、その裏に消えた。僕には、あの「忍耐」が、どんなに古臭くともこの家の支柱のように思っていた。が、今回それがなくなっていた。

何かが違う、と思ったのは、信愛での二日日の晩「とうもろこしパーティー」で僕らを歓迎してくれたときだった。
前もって僕は「アボジ、今夜はいろいろな話、みんなにしてください」
と伝えていた。僕は、「父」であるアボジが、みんなの前でいっものように重みある言葉を語るときが自慢だった。誇りに思っていた。今夜もそれを期待していたのだ。
畑から採れたてのとうもろこしを茹で、バケツいっぱいに詰めて部屋の真ん中に置くと、その周りを9人のキャンパーが囲んだ。それだけのささやかなパーティー。心遣いが有難かった。僕らはむしゃむしゃと、とうもろこしを食べた。いや食べていなければ気まずかったとも言えた。会話の間があいて空気が澱んだ。気まずい沈黙もアボジが掌握し、話の主導権を取ってくれるのを待っていたがためだった。しかし、アボジは「お酒、飲みなさい」以上の言葉をついぞ出さなかった。
どうしたんだろう?アボジ
アボジの頑の中は、なにか別のことでいっぱいのような気がした。
実は、オモニが入院するという。
腰がずいぶん悪化しているらしい。

去年の秋、オモニは僕の手帳に、間違いだらけの漢字で「更年期障害」「関節炎」と書きつけ、今度、韓国に来るときはその薬を買ってきてくれと頼んだ。薬を買うお金がないから僕に頼んだとは思えない。たとえ貧しくとも物乞いをする人ではなかった。今から思うと、オモニは韓国の薬を試してみたが効き目がなかったのだろう。それで、すがるつもりで日本の薬に求めたのだろう。
薬の効き目などあろうはずがなかった。腰骨がズレてしまっていたのである。
それでも顔にこそ出さず、腰を騙し騙し暮らしてきた。病院へ行き、検査され、万一入院となったら家に負担がかかる。それをずっと恐れていたのだろう。
今夏、結局僕が買ってきた薬は役に立たなかった。
僕が「オモニ」と薬を差し出したとき、オモニは「アイゴー」と言い、入院するのだという旨を話してくれた。
オモニの入院は、本来、僕らのキャンプの前に、すぐにでもという状態だったが、「必ず(僕らが)来るから」
と信じて、キャンプが終わる15日まで入院を延期して待っていたのだと言った。
オモニは、「韓国救癩の母」と呼ばれるエンマ女史が院長を務めるカトリック病院に入院することになる。その費用が、200万ウォン(50万円)。大金である。どう転んでもそれだけの金額をアボジは工面できない。
「エンマさんは、お金のことは気にしなくていいから」と言ってくれてるがね・・・」
アボジの顔は曇る。

信愛に滞在した5日間、酔い潰れたアポジを何度も見た。
崇高な老人なんかじゃない、無様な、弱々しい、どうしょうもないアボジを見た。
酒に溺れ、気がつくとアボジは、そあまま倒れ伏していた。
部屋の真ん中で、時には外で。
日が暮れ、外で眠ってしまったアポジを、「風邪ひくから」と息子のキユは、さも慣れたことのようにアボジを揺り起こし、靴を履かせる。
「ン、自分でやるから」
と、アポジは目を覚まし言うが、丁寧にキユが靴を履かせてくれるのに任せていた。
キユの本当の父親はアポジではない。実父を亡くした後、オモニとともにこの信愛に来た。新しい父親はハンセン氏病快復者だった。指のない手では自分で靴を履くこともままならないこの父親に、丁寧に靴を履かせているこの高校生を大したものだ、と思った。
黄色い外灯が、アボジの冴えない表情を照らす。起き上がると、アポジはふらふらと歩き出した。 キユが肩で支えようとするのを大丈夫だと拒んだ。それから、
「ちょっとお酒、飲みすぎたね」
と、日本語で僕に淋しそうに笑って言い訳した。
酒に酔ったからだけではない、足の指がないアボジはふらふらとしか歩けないのだ。村の小犬が、悲しそうな目でアポジを追いかけた。小犬はまるでアポジの心のうちを分かっているかのように。
アボジの心のうちか・・・?

「アボジがたくさん酒を飲むのは」
アボジを家の中に入れた後で、息子のキユが言った。
「アボジ・ハブ・メニー・ストレス」
キユは時々英語を使った。それは僕の韓国語への不信感からというよりも、僕らが不自由な韓国語を使って話そうとしていることへの敬意として、自らも対等に外国語を使うのだ、と感じられた。
「ストレス?」
ストレス…。意外に思ったがその言葉で、酔い潰れるアボジの心の輪郭が見えはじめてきた。僕は、キユの次に続く言葉を待った。
「オモニの腰、もうすぐ入院すること、それにプア」
「・・・」
「プア。イナバさん、家にはお金がない。アボジはそれを・・・」
「・・・」
「どうすることもできず・・・」
「・・・」
どうすることもできず(タプタッバダ)。
アボジ・ヌン・タプタッバダ。
キユは静かに語った。その静かさが、アボジヘの思いやりのように感じれた。
直訳すれば、じれったい、もどかしい…。
僕もまたアボジの苛立ちを思った。と同時に、アポジの気持ちを的確に当てたキユに驚いた。
この高校生は、オモニを悲しませているアボジの酒を心の底では責めていない。いや責められず、愛情をもって遠くから見つめている。実の父ではないからかも知れないが、その距離をおいて人を見る目をこの男はどこで覚えたのだろう。

「イナバさん、ここでは、ライフ・イズ・ハード」
続けてキユは言う。
ライフ・イズ・ハード
僕はふたたび言葉がなかった。
この高校生は、勉強がハードだと言ってるのではない、ライフ、それも生きていくための最低限の営み、それをハードだと言っているのだ。
そして、その苦しみに自分は面と向かわねばならないと、たんたんと言っているのだ。
一家で働けるのはキユしかいない。オモこは腰を痛めて入院を控え、アボジはあのような体だ。一人、畑に立ち、鍬をふるうキユの姿を何度も見た。その畑の前の道を、大学生のバイクが駆ける。暇を弄んでいるかのように仲間と何度も往復する。うち一人は村の会長の息子、金持ちの息子なんだろう。その間、キュは、もくもくと鍬をふるう。この境遇を、逆らうこともなく淡々と受け入れている。この強さはいったいどこからくるのだろう?
そして仕事の合間を惜しみながら、キユは机に向かう。

キユは高校を卒業したら、ソウルの大学を働きながら8年かけて通いたいと言っている。     
最初に会ったとき「将来プレジデントになりたい」と言うので、「そうかカンパニー(会社)の・・・」なるほどと僕は思い、「どんな会社?」と聞いた。
「ノー。カンパニー・ノー」、
とキユは、強い口調で否定した。
「カントリー」
プレジデント・オプ・カントリー!コリア!ウリナラ(わが国)!
夢は韓国の大統領であった。
大きな夢を見ることなど馬鹿げている今の風潮のなかで、それは爽快な答えだった。

人が大きな夢を見るのはどうしてだろう?
キユがここ定着村に来て、「ライフ・イズ・ハード」と言う、その境遇を今、淡々と受け入れられるのは、夢があるからだ。しかし、ハンセン氏病の後遺症の残る人の村は、高校生の若い眼には烈しすぎる、深すぎる現実に違いない。ではその現実から目をそらさず踏み越えようとするなら、それに
見合う大きさの夢とは何だろう?
1960年に始まった定着村という特異な世界。キユはそこで育った最初で、おそらく最後の(ハンセン氏病の新規患者が出なくなり、いずれ定着村は地域社会に融合するからだ)子どもだろう。
その特異な世代から大統領が誕生したら、きっと、この大統領は環境というすばらしい教育を受けてきたからにちがいない。
  「十年」
  「父母」
  「忍耐」
キユの部屋にある三つの標語である。
二つ日の「父母」。父は、実の父ではない。その父が、指のない手で書いたという、あの 「忍耐」。
アボジの、あの「忍耐」はこうして生きているではないか!

アボジが酒に潰れ、家のなかで倒れ伏した夜。
オモニは一人、外で涼んでいた。考え事をしていたようだったが、歩いてきた僕を見つけ、呼び止めた。
酒に潰れたアボジを見るのは辛い、とオモニは言った。オモニがまだ家に戻りたくない気持ちでいるのが分かった。ただ今はひとりで、こうして夜風に吹かれている時が、一番自分を慰めるだという表情だった。
これから入院を控えたオモニの表情はけして明るくはない。入院の間、家のやりくりをすべてキユに任せねばならないこと、アボジの酒はいつだって自分を辛くさせること、そして、入院のお金、オモニはそれらの悩みを僕に吐露した。

それから歌を歌ってくれた。
暗い、沈痛な響きの歌だ。オモニのしゃがれ声がよけいに悲痛さを誘った。オモニはやはり、歌いながら自分の心のひだを震わせ、自分を慰めているかのようだった。
「なんていう歌?」
歌い終わってから僕は聞いた。
「コヒャンマルリ」
故郷は万里のかなた、という意味か。
オモニの故郷はどこだろう?と、ふと思った。そして、どうしてこの信愛にきて、アボジの後妻に入ったのだろう。
「昔はもっときれいな声が出た」
「ふうん」
「でも、煙草を吸って、ダメになった。こんな、がさがさ声」
と、オモニは言った。
そして、新しい煙草を取り出し、火をつけた。
「生活はね・・・」
「・・・」
「よくは、ない」
それは吐き出すような呟きだった。
「どうしようもない。(オッチョルスオプシ)」
「・・・」
「どうしようもなく、・・・生きてるよ」
「・・・」
「キユのためだ」
「・・・」
「キユのため」
僕はただ、オモニの語る言葉を静かに聞くだけだった…。
そして、オモニの心が晴れるときは来るのだろうか、と思った。貧乏で苦労しどおし、それだから腰骨まで悪くして。入院も家の事を考えて最初遠慮したのだろう。そんな人生だ。何のために生きてるかを考えたら、唯一の光は、わが子しかない。しかし、自分の人生は?
オッチョルスオプシ(どうしようもなく)
無情の響きがした。

アボジとオモニはカトリック信者である。
そのことだけが、きっと二人を結びつけているのかも知れない。しかし、貪困という人生の苦しみのなかで、二人が顔を向け合うことはない。
もし向き合えばよけいに辛くなる、と思えてくる。やり場のない苛立ちが直接相手に向かうだけだ。
だからアボジは酒に逃げ、オモニは一人外の風に吹かれて自分を慰める。それぞれの方法で一生懸命、別々に沈めようとする。
アボジヌン・タプタッバダ。
そして、オモニの言った、オッチョルスオプシ。
ニュアンスこそ違え、ともに同じ意味かも知れない二つの韓国語がいつまでも胸について離れない。

信愛にたくさんの赤とんばがやって来た。
明日は僕らが韓国を去る最後の日。オモニが入院する日でもあった。
豚が病気になった。
やっと子どもを生んだ母豚が、御飯も食べず、立ち上がる気配すらない。今月5日に生まれたての10匹の子豚が、横臥したままの母の乳を一生懸命まさぐっていた。
相信農場では、豚が病気で全滅して村を去った家があるという。そのことを聞いて僕は胸騒ぎがした。悪いときに、どうしてこう悪いことが重なるのか。
豚はこの家の唯一の財源だ。いま、ただでさえ貧しい上に、オモニの入院で200万ウォンがいるときに…。
「いやア、困ったねえ」
と、アボジは町の薬局へバイクを走らせた。
その顔には、うすら笑いさえあった。
貪乏は人間を崇高にする、などと僕はふぬけたことを思っていた。貧乏は、人をはがい締めにし、身動きを封じこめるものじゃないか。それこそ、どうしようもなく、生活の苦しさを、苦しみ見抜いてなお、それはのしかかってくる。酒で忘れなければ、いったい…。
アボジはいつだって、自分にせめて指があったら、という苛立ちを忘れることができない人だと思う。指があったら働けるのに、こんな貧乏の苦しさから脱出できるのに。そして腰の悪いオモニも、もっと早く入院させられたのに、と。
しかし、もう69歳の、からだの衰えた老人には、その呪縛は重すぎやしないだろうか?指のない手ではどうすることも出来ないのを一体どうしろというのか?それは酷だ。普通だったら69歳は、隠居の年だ。生活保護を受け安らかな老後を送る、そうあってはいけないだろうか。それとも一生、喘ぎから解放されることはないのか。
明日は僕らが信愛を去る、そしてオモニが入院する日。
最後の晩も、アボジは酒に潰れ、そのまま突っ伏して眠った。
孤独な寝姿だった。
本来なら8月15日、喜ばしい光復節の一日だというのに。

[稲葉充利 1991年、韓国・信愛農場キャンプ]

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