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楽山農場

経済均衡を通した和合の村 楽山農場

一九六五年五月、テグ市から倭館に通じる京釜国道沿いにある楽山洞の峠では、力強いハンマーを打ち鳴らして野山の樹木が次々と切り倒され、土を掘り起こすシャベルの音が騒がしく鳴り響いていた。第三共和国の意欲的な経済開発に歩調を合わせるように、新しく出発した六世帯の人々は、自立の意志を実践しようとする自負心を持って熱心に働いた。ハンセン氏病から受けた苦しみ悲しみが、「病は治癒した」という医者の言葉によって一瞬のうちに消え去った彼等にとっては、全てが感謝の対象となり世の中に再び生まれたような気分だった。国立病院のある愛生園で長い間療養生活を送りながらも、時として絶望の淵に深く陥る事もあったが、健康を取りもどすために死物狂いの闘病生活を送った結果、ようやく勝利の喜びをつかめるようになった。

*負債により用地を取得
慶尚北道・漆谷郡・枝川面・蓮湖里に位置した愛生園には、一時期、千名を越える患友たちが療養していたが、政府の方針にしたがって第一陣(一九六一年)として慶州に治癒者たちを定着させるようになると、健康を回復した人々は全て定着生活を通して仕事に従事する事を望んだ。しかし、膨大な予算を必要とする事業だったため、当時の政府当局としては段階的に定着支援を進めて行くしかなかった。
このような時期に楽山洞に移住しようと決心した二十五世帯五十余名の人々は、いつ行なわれるともしれない政府の支援事業をただじっと待っている事はできなかった。みんな持つ物はなくとも、若さと誠実を担保にして、あちこちから借金をして来て、近くにある楽山洞峠一帯の土地五町歩を買い入れた。そして、まず教会を建て、早朝祈祷を行なってから一日の日課を始める彼等は疲れる事も忘れて黙々と仕事に打ち込んで行った。木を切って根を掘り出し畑を耕す作業は、それほど手易い事ではなかった。時には水泡ができたり、空腹のあまり気力が尽き果てて倒れる事もあったが、互いに手を取っていたわり合いながら勇気を振り絞ってがんばった。

*試行錯誤から来る苦痛
この土地は北向きの陰地であったが、連日、村人総出で家を建てたり穀物を植えられる土壌を培おうとして、一生懸命に努力した。全員、これといった農業経験もなく、ただ意欲のみあるだけで、はっきりとした具体的な計画もないまま桑や麦を植えて行ったのだが、それが正しく育つはずがなかった。彼等は毎日のように三度の飯をどう食いつないで行ったらいいのか、常にその心配をしていたが、一年の間、熱心に開墾し育てて来た作物がだめになると、気を落とさずにはいられなくなった。それに追い討ちをかけるように、さらに大変な荷物となったのは負債償還という負担で、このために全村民は一日一日の食糧をそのたぴごとに調達しなければならないという困難な境遇に陥った。
イスラエルの指導者であるモーセがヨルダン川を前にして十二支派の偵察者をカナンの地に送り、その報告を受けた後で人々から怨言を聞いたように、彼等の間でも苦労を重ねるうちに愛生薗にいた頃の事が恋しくなって来て、定着を主導した指導者たちを恨む人も中にはいた。当時、当局からまだ認定を受けられなかった他の地域のように救護糧穀の支援をもらえなかった彼等は、地方自治団体の協力の下に就労事業をして、なんとか三度の飯だけは食い繋いで行った。しかし、家々ごとに溜まった負債は多く、だんだんと所得の限界が表わになって来たため、ついに持っていた土地を売却して負債を清算するに至った。そして、血と汗を流して培った土地を、捨て値で売らなければならなかった痛みは、彼等に新しい精神武装をさせる契機となって行った。

*畜産業の拡張
彼等は土地を耕して穀物を植え、蚕も飼いながら集めたお金でもって、なんとかヒヨコと豚を買い入れた。そして、その一匹二匹のヒヨコが、まもなく三十匹、四十匹の成鶏となり卵を産み出すようになると、再び新しい希望が芽生え始めた。
現在、楽山農場の育産組合を率いているキム・ジョンギ氏と代表者であるキム・ムゴン氏は当時を振り返りながら、「その時の収入が現在の収入よりもっと良かったようだ」と話す。そのくらいに彼等にとって養鶏は大切な所得源となり、生活安定にも大きく寄与したという事である。
しかし、このような所得では村がかかえる全ての問題を解決して行く事はできなかった。他の土地で就労したり個人的に商売をしながら切り詰めた生活を送る事によって、ようやく家畜の数を伸ばして行く事ができた。そして、これが彼等にとってかけがえのない大きな財産となり、今日の楽山農場を成す礎石となったのである。

*エンマ・フライジンガー女史の支援
このような困難は長期間続いたが、一方で飲料水の調達も難しい問題として残っていたため、その当時、村人たちが味わった不便は一つ二つではなかった。この時、オーストリア婦人会の後援で韓国に派遣され、救癩事業を行なって来たテグ市カトリック皮膚科医院のエンマ・フライジンガー院長が、この村に大きな関心よせて物心両面の支援をしてくれた。「カトリック団体に身を寄せていながらプロテスタントの団体を助けるという仕事は容易ではない事を考えると、教派と教理を超越した彼女の支援は実に大きかった」と語る楽山農場の指導者たちは「その時のありがたさは決して忘れられない」と言って当時を掘り返った。
このような努力の結果、村では飲料水難の解決と生活改善において基本的な条件を備えられるようになり、村人は養鶏に専念できるようになった。この時に作られた地下百五十メートルから汲み上げる水は、今も村の貴重な飲料水、事業用水として大切に使用されている。

*畜産業の発展と限界
若さと健康、そして誠実な努力によって発展した楽山農場の畜産規模は、養鶏が十三万匹、豚が二百余頭で、一家屋当たり四千匹から五千匹の鶏を飼っている。毎月の飼料消耗量も四百五十トンと比較的充実した規模で、飼料会社の熾烈な販売競争によって、現在、村では三カ所の会社から飼料を同時に買い入れている.また、育産物を出荷する時には個別出荷の形でテグ地域の商人たちに卵を販売していて、慶北定畜連合会とキム・ジョンギ組合長の努力により、なんとか上手に仕事を進めている。しかし、村がグリーンベルト地帯に面しているため、その地域的限界性と狭い農場面積から今後の畜産業の拡大に大きな障害となっている事も事実だ。国土利用管理法上、グリーンベルト地域における建築物規定は絶対性を持っていて、所得増大と自立基盤の造成の上で大きな衝撃となっている。
また、村はテグ市内に隣接した所に位置しているため、近隣地域の地価が相当に高く、畜産施設を拡張しようにもその敷地を購入する事も難しいのが実情だ。

*工場賃貸業へ転換を希望
全国の定着村の中でグリーンベルト地域に位置した農場は、全部で十余力所あり、その全てが畜産拡大において大きな困難に直面している。住民たちは所得増大と畜産業の競争力を高めるために、畜産物の増産を切実に求めているが、その実現にはいろいろと制限が多い事が問題として指摘されている。
グリーンベルト地域にある農場は大部分が大都市圏に属していて、工場賃貸業への転換を要求しているのが特徴であるため、当局からの制度的な補完が切実に求められている。ここ楽山農場でもこのような障害要因のために、村人が畜産業の拡大に対して相当に萎縮してしまっており、労働力を感案して手易い工場賃貸の方へ事業を転換する事を希望するようになった。若さと意欲的な行動が関連法規の制約によってその生産性を失っている状態を当局が看破して、もっと積極的に対策を立ててあげなくてはならならない。

*子供たちによる社会進出の成功
楽山農場はテグ市近郊に位置していて、全ての生活がテグ市と直結しているが、教育もその内の一つである。百余名を越える村の人口の中で、学生はその半数以上を占めているという事実は、父母たちの高い教育熱を代弁している。大学への進学者が十名を越えているが、その全てが成績が優秀で一般社会への進出を希望しているという。現在も大学を卒業した大部分の子供たちは教師や一般会社の中堅社員として活躍しており、父母たちの自慢の種となっている。人よりも困難で寂しい境遇の中で、苦しみの人生を歩まざるをえなかった彼等が今後、この村で喜びと平穏があふれる人生を送って行けるようにな
る事を願いながら、確固とした自立の意志を通して均衡ある発展をして行く楽山農場の紹介を終える。

[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

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