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閑洞農場

火田に生まれた奇跡 閑洞農場

定着村の中でも一番末っ子と言える閑洞農園は、全羅南遭・筏橋から光州へ行く国道沿いにある。
今から十年前の一九七六年十一月二日。初冬の冷たい天候の中を、当時、国立小鹿島病院の院長だった申汀植博士の斡旋によって、十三家屋、二十七名の人々が移住して来た。全羅南遭・昇州郡・外西面・火田里。その名の通り、ここはその昔、火田(焼畑)民たちが野に火をはなって作物を栽増した不毛の土地であった。そして、そればかりではなく、定着によって近隣に住む住民たちからの激しい反発にもぶつかり、数多くの試練を味わわされた。海抜二百六十メートルの山岳に足を踏み入れた彼等の先行きは暗たんとするばかりであったが、小鹿島から新生里の里長として部署長生活をした事のあるパク・ジョンギル氏が定着村代表として先頭に立つと、きちんとした計画の下に不毛地を開拓する仕事をし始めた。既存の構造物と言ったら、崩れかかった蚕舎三棟だけ。だんだんと冬が近付いているのに、寒さを凌ぐ掘っ立て小屋さえない状態であったため、彼等は国道の周辺に引っ越し荷物を置いたまま、蚕舎を改造し、たとえ狭くとも十二世帯が生きて行ける居所を得る事が、まず最優先に解決しなければならない問題となった。その時の持ち物と言えば、小鹿島から持って来た数匹の家畜と、その他、生計をわずかに繋いで行ける糧穀が当局から支給されていたにすぎなかった。
彼等はまず、七百メートルに至る村の進入路を作る仕事から始めた。明け方の四時に起き、早朝祈祷をしてから二十七名の村人が動員され仕事を始めた。時には吹雪が手に強く吹き付ける中、夜も寝ないで働いたため、疲労が重なって倒れる者もいたが、手足が脹れ上がっても包帯を巻いたまま働くしかなかった。しかし、これに屈する事なく、彼等は痛い手をお互いにさすり合いながら、完全な自活村となるまでは一時も休まないぞと心に誓って、荊の道を掻き分けて進んで行った。そして、昼は村の共同作業をし、夕方には自分の家を建てる仕事を行ない、夜十一時が過ぎて、やっと眠りに就くというような生活がだんだんと実を結んで来て、やがて「我々もよく生きられるんだ」という確信が村人の胸の中に湧き起こって来るようになった。そのような血のにじむような努力によって、全長二千五百メートルを完全な自己資金で完成させ、現在ではどの家庭でも十二tトラックが意のままに出入りできるような立派な道路となっている。
定着当時から農園長暇を担っているパク・ジョンギル氏は当時を振り返りながら、「小鹿島で生活していた時、何カ所かの定着地に行ってみた事があったが、大部分の村はやっとリヤカーが通れる程度であって、重い肉体労働ができない我々としては、車が入れる道がどうしても必要だった」と語り、汗水を流して作ったこの広い道がとても誇らしいと陶を張った。
定住当時、激しい反発を見せた近隣地域の人々も、不平をこほす事もなく、ただ黙々と働き、日を追うごとに発展して行く閑洞農園を見ているうちに、だんだんと認識を改め、親切に接するようになった。しかし、外西小学校へ子供たちを入学させようとした時の近隣住民の反発は、言葉では言い表わせない程だった。当時、国立小鹿島病院の院長であった申汀植博士と昇州郡守、教育庁などが説得してやっと解決の糸口をつかむ事ができたものの、彼等が受けた心理的苦痛は非常に大きなものだった。
そんなある日、閑洞農園から外西小学校に一台のピアノが寄贈された。困難の中でも決して失望せず、言葉ばかりを前に立てず黙々と実践して行こうとする村人の姿は、地域の住民たちの心にもきっと届き、これからは心の隔りのない地域へと変わって行くものと思う。
そして、それまで熱心に働いて釆たかいがあってか、彼等が行なった仕事がやがて輝き始めた。一九八二年には全国「青い村」振興事業で第一位を占め、副賞として三百万ウォンの賞金をもらった。
本当に胸がいっぱいになった。他の村より良い条件だとは決して言えない閑洞農園が全国で一位を取ったという事は、村人たちの誇りとなった。そして、農場長のパク・ジョンギル氏を中心にして村人の間で話し合った結果、全員一致でこの金で村の福祉会館を建てる事を決議し、すぐさまこれを実践に移して、三棟の住宅を建てたばかりでなく、老弱な老人たちのために養老施設も備えた。
このように熱心に生きて行く彼等の事は、やがて、昇州郡から全羅南道へ、全羅南道からさらに全国
へと広がり出し始め、各月刊紙も競ってこれを報道するようになった。そして、この事を伝え聞いた大統領夫人の李順子女史は激励金として三百五十万ウォンを閑洞農園に下賜してくれた。令夫人の下賜金を受けた閑洞農園は、一九八三年二月にその全額を投資して韓牛七頭を買い入れ、それを元手にして現在も増やしている。
定着当時、立てた「深く考えよう」「力強く立とう」「明るく笑おう」という素朴な標語が、今では現実となって、全国で最も所得が高い村として成長して行っている。
一九八六年九月現在、村の住民は六十五世帯、二百五名に増え、ほとんど完璧に備わった畜産施設に豚二千八百余頭、鶏三万余匹、非肉牛百余頭を養育する大農場へと変貌した。十年という短い間に、無から有を創造し、目覚ましい発展で奇跡を成すまでには、何よりも徹底した信仰生活が基となっていた。六十五世帯、二百五名の全村民がクリスチャンであり、村の中央に立っている新光教会に通っている。村の教会が中心となり一致協力して活動するのは珍しい事ではないと言うパク・ジョンギル農薗長も、この新光教会にいる三名の長老の内の一人である。定着してから十余年の間、農園長のパク・ジョンギル氏を助けて来た総務のカン・ヨンジン氏を始めとして、専務のパク・ヒョンウク氏、常務のイ・ギョンジェ氏などは、農場全体の事をまさに自分の事のように考え、我が身も省みずに月十万ウォン未満の給料をもらいながら農場発展のために献身している。個人の利益は考える暇もなく、いつも一粒の麦になろうとする彼等の生活は、真の信仰心がなければ不可能な事であるかもしれない。
「私達の農場は、村全体が一つの教会となって生きて来たし、畜産組合の所得を始めとして外部からの誠金も、まず十分の一を神様に捧げようとする徹底した十一条生活をしています」と語る農場長のパク・ジョンギル長老は、また「今まで困難に出会ってもいつも私達の生活を保護して下さった神様に対して感謝を捧げずにはいられないのです。今まで作り上げて来たものが消えてなくなっても、神様だけは捨てる事はできない」と信仰告白をした。
一糸乱れぬ体系をもって構成された盲産組合も、始まった当初の一人当たりの出資額は三万ウォンだったが、今では一人当たり二百万ウォン以上に増えている。
当初は畜産組合を通して一括購入して供給していた飼料や動物薬品なども、必要とあらば電話一本で個人の畜舎まですぐに供給されるようになった。また、農場の住民なら誰でも、畜舎を増築して飼料頭数を伸ばそう思えば、ほとんど何の制限もなく畜舎基金を融資してもらえる。
これまで個人的な利益のみを追及するよりは、全村民が一つとなって農場を発展させようという目標の下に、互いに奉仕し合い、愛を施し合って来たため、今では村の経済規模が均等に発展できるようになった。この事は他の定着村でも手本とすべきであろう。
また、対外的な信用度の面においても、農園創設以来一度たりとも不渡りを出した事がなく、その信用度は公共機関くらいしっかりしているといえる。それでも彼等は怠惰にならないようにと、いつも謙虚な心で祈り、今日も豊かさの中で神様に感謝をしながら生きている。
村の会館前に立っている「犯罪のない村」(全羅南道知事・光州地方検察庁・検事長、捺印)という言葉と、農場長室にすきまなく立ち並んでいる賞牌と大統領令夫人の書信を見れば、堅実な生活で一貫して来た閑洞農園の村人たちの十年間の哀感を伺い知る事ができよう。
平和な閑洞農園の広々とした村道を眺めながら、きれいで広いあの道のように全ての定着地がのぴのぴと発展して行く事を願わずにはいられなくなる。些細な事で争いを起こし、互いを妬み合うと、どんな発展もおぽつかなくなると思う。短い期間に安定の基礎を築いた閑洞農園のように、自分一人を犠牲にしてでも多くの人々のために愛を施そうとする姿勢で生きて行く時、平和な明日が約束されるのだと思い、火田に起こった奇跡以上の奇跡がこれからも起こり続ける事を願っている。

[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

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