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協同産業

企業育成により明るい未来を切り開く 協同産業

一九六人年三月十五日.京畿道・南楊州郡・ミグム邑・坪内里に十三世帯、五十余名の人々がやって来た。そして、ムン・ソクミン氏が中心となって、以前よりもさらに多くの所得を上げようとして六千坪にも逢する土地に畜舎を建て、新しい生活の基盤を築いて行こうとしたのだが、まもなく予想していた通りに、近隣の住民たちが彼等の行く手に立ち塞がり猛烈な反対運動を始めた。それは前後の事情を全く分かってない人々が、ハンセン氏病快復者たちが新しい企業を作ろうとする仕事に対して、その意味を充分に理解しようとせずに反発したのだといえよう。開拓当初からこのような大きな混乱が起こり始めたため、村人の中でも特に意思の弱い者はそれに堪えきれず荷物をまとめて出て行ってしまったりもした者もいた。しかし、五世帯十余名の村人は私有財産の認定と権利を主張しながら最後まで彼等に立ち向かい、定着する道の方を選んだ。ムン・ソクミン氏はこの時から第一線に立って、近隣に住む住民や行政官庁の職員たちを訪ね歩きながら、定着生活に必要な緒々の準備を整えて行き、全国に散在している定着村を相手にして孵化事業を始めた。

*孵化事業の失敗
その後、孵化事業は順調に進み、肉用種鶏の孵化能力が三十万匹にも達するようになった時、肉鶏市場の暴落とオイル・ショックによる養鶏業の大不況が襲って来て、それが村にとって大きな圧迫要因となった。協同畜産として始まり、ようやく活気を得たのに、またたく間に暴落の淵にはまってしまった事で孵化場では日を追うごとに困難が増して行った。そして、孵化能力の裏付けとなるべきヒヨコの需要が伸びないまま、養鶏家たちが肉鶏用ヒヨコの入手を控え始めると、協同畜産は負債にあえぐようになり、相対的に収支の方でも多くの狂いが生じ始めた。そして、まもなく経済的に到底持ちこたえられ
ない状況に追い込まれると、ムン・ソクミン氏は畜産業界の債務と全国の定着村から入って来た資本を(投資地より)最大限回収し、これを返済するための対策を立てて、債権者たちが集まった席で自分の考え方を詳しく説明した。その話を聞いた大部分の人々はムン会長の収集方案を理解してこれに合意し、能動的な反応を示してくれたのだが、一部の人からは、あくまで現金での償還を主張されたため苦痛を味わったりもした。

*工場誘致で一大官険
やっとの事で債務整理を終えたムン・ソクミン氏は、一九七六年から村の、敷地の中に工場の建物を建築し、それを貸賃する事業を考案して具体化させて行った。それまで畜産で熱心に努力をして成功した同僚たちの姿をたくさん目にして来たが、彼はそれよりも一歩先の事を推し量った事業を着想したのだ。村人がやがて年老いて労働力を喪失した場合を考えて、彼は工場用建物を建築して認可を得、これを企業に賃貸して行きながら彼等が余生をゆっくりと過ごせるようにと考えたのである。その彼の奇抜な発想は、ちょうどその頃、京畿圏に吹き始めていた工業化の風に乗って活気を帯び始めた。
この時、建てた建物は総計十六棟で、建坪が千五百坪にも達するような大規模な物だった。そして、自己資金が貧弱な繊維業者を株主形式で参入させて染色団地を作り始めた。それによって、これまで狭い空間と貧弱な施設の中を転々としなければならなかった繊維業界の経営者たちはムン・ソクミン氏と息を合わせて、「協同産業」を国内屈指の染色専門団地へと育成して行った。そして、首都圏では公害問題があるため外核地帯への移転が迫られていた染色工場を村に誘致する事に成功した彼は、今度は少し長期的な目をもって公害防止施般を備えるために活動を繰り広げ始めた。そして、これによって一日に最大容量が七万ヤード(織物の単位)処理できる国内屈指の染色団地が誕生した。時を同じくして、彼は二十余個の業者を正式に工場登録し、パンウォル染色団地に続いて国内では二番目となる染色団地を設立した。
このような事業がうまく軌道に乗るまでには、多くの幸運があった革も幸いしたのだが、人よりも抜きん出た度胸と誠実さ、そして情熱的な思考が仕事を瞬く間に進展させて行った事が上げられる。彼は現在の自分があるのは、当初、五世帯しかなかった時にいつも積極的に協力してくれた同僚たちのカが実に大きかったと語っている。今でもこの村の居住人口は多くないが、同病相憐(同じ苦痛を負った者は、互いの心がわかるという意)によって、ムン・ソクミン会長は八十余名にも達する共同出資者の中から三十二名のハンセン氏病快復者を選び、高い配当を分け与えてあげた。

*二世採用の優先
ムン・ソクミン会長は現在四十余名に達する職員を定着村出身の二世の中から採用しているが、彼等の中には高度の機能を有した人材として大きく成長した若者たちも相当数いるという。現在も全国どこからでも定着村の代表者の推薦さえあれば、人材を雇用できる道を備えているのであるが、それに応じて来る数は少ない方だとムン会長は残念がる。そればかりでなく大部分の青年たちは意思が弱く、かつ父母の下で過保護に育てられて来たため適応力が足りないと指摘し、もっと積極的な思考を持つべきだと強調している。しかし、与えられた環境の中で熱心に生きて行く青年たちを見ていると、自分の子供以上に情が移り、彼等の夢をぜひ育てて行ってあげたいという思いにかられるという。
たくさんの企業を率いて直接経営の形態を取りながら多くの財力を築いて来たムン・ソクミン会長は、これからも巨大な「協同産業」の塊をもって、できれば定着村の青年たちをたくさん集めて行きながら、彼等の夢を育て上げ有能な人材を培って行きたいという希望で胸を膨らませている。最近では、貧しさから向学の道が塞がれた青年たちに対していろいろと援助の手を差し伸べるために他方面に渡って資料を収集しているというが、彼の考え方を見ると、それをそのまま表面的に終わらせないで真に助けを渇望している子女たちを支援して行くために確固とした対策を備えてあげられるようになるだろうと思われる。

*努力による結実
多くの人々はムン・ソクミン「協同産業」会長の投資カと情熱的な姿勢を良く知っている。一九三四年、全羅南道・渾陽郡で生まれた彼は、幼い時からたくさんの苦労をしながら生きて来たが、人並み以上の積極性によって与えられた仕事に最善を尽くす姿勢をいつも崩さずに生きている。益山農場、聖生農場などを転々としながらも、病苦に打ち勝った意志の強さを持って彼は同僚たちの便益のために常に努力して来た。しかし、一部からは彼の事を無視しようとする例もある。孵化事業の失敗が投げつけた傷は彼に深い傷を負わせたが、しかし、その事業に対して決して弁明しようとはしなかった。「自分が歩まなければならない道を忠実に進み、一生懸命に努力をして、足が擦り減るくらいに走り回れば、やがては生きる道が開けるのだから、いつも弛まず努力をして行こうという姿勢だけは変わらないのだ」と彼は言う。
現在、彼は社会の最も暗くて弱い部分を見つめながら、自分がカになってあげられる事があれば、いつでも手助けしてあげようという心構えをしっかりを抱いて、事業の方でも新めて熱心に努力して行こうという決意を固めている。たとえ村人が少ない「協同産業」であっても、これからは外から見ても遜色のない姿を備える事で、全ての面において余裕を取り戻せるようになるだろうと思う。大部分の定着村は畜産で生計を営んでいるが、数年前からは京畿道圏のいくつかの農場では工場賃貸業へと転換して行っており、ある意味では「協同産業」は十余年程前から他の村の先に立った事業を展開して来たとも言える。特にムン・ソクミン会長を裏から補佐しているパク・ユンソ常務を始めとした十余名の職員たちの働きぶりも、ムン会長の性格と同じくらい積極的で情熱的だ。定着村としては始めての工業団地として根を下した「協同産業」のあらゆる面を詳しく紹介する事は紙面の関係上難しいが、すでに巨大な工団としての位置を固め、無から有を創出し、冒険的で安定した企業形態を備えられるようになった事は確かだ。そして、「忍耐は使えばその実は甘くなる」という諺をもう一度心の中でよく反芻しながら「協同産業」の紹介を終える事にしたい。

[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

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