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東震農園

第二の跳耀を夢見る 東震農園

京釜高速道路の開通によって」父通の要衝となった新葛・インターチェンジから龍仁郡の方向へ三
kmほど行くと、オジョンという場所に至る。ここはわずか十年程前までは人がめったに足を踏み入れる事もないような、ひっそりとした農村だった。しかし、京釜高速道路の開通とともに、工業化の波が押し寄せると、ここにも中小単位の工場が立ち並び始め、今では準工業地域として発展して行っている。
そして、この地にハンセン氏病快復者たちが入り始めたのは、今から四十年前の事だった。京仁地域の街々を放浪しながら生きていた数名のハンセン氏病者が、ここオジョンに定着し天幕生活を始めるようになった。やがて六・二五動乱(朝鮮戦争)が勃発すると、首都ソウルが廃虚の都市となり水原城も破壊されて、生きる糧を失った多くの人々が南へ南へと避難して行ったが、彼等は戦争の混乱の中でもこの地に踏み留まり、生きるために大地を耕した。十余世帯三十余名の村人たちにとって、この時、耳のそばで鳴り響く砲声さえも恐ろしいとは感じなかった。むしろ、それまでハンセン氏病ゆえに多くの人々から受けて来た冷遇の方がもっと恐ろしい事だったため、彼等は戦争の恐怖を味わってでも、ようやく手にした土地の上で生計を営もうとしたのだ。
一九五二年五月一日.十二世帯三十四名の人々がこの地に集まり、手に入れた田畑を耕しながら、自立の道を歩むために固い決心と新しい覚悟をもって再出発した。

*農業生描と当局の支援
ハンセン氏病が治り病苦からも解放されて、健康な肉体を取り戻した彼等は、手に入れた土地に何か作物を植えて育てて行けばなんとか生きて行けるかもしれないという希望を胸に抱いた。険しい山を削り土地を耕して植えた穀物が雨水を吸って、やがて、そこから新芽が芽生えて来ると、彼等は不思議な思いにつつまれた。そして、まるで我が子を育てるような真心で、根をはった穀物の世話をし続けた。
しかし、収穫する時になって失望感を味わった。ここに植えた穀物を上手に育て上げれば食料の件は何とか解決できると思っていたのに、実際にはそれはとんでもない考えだったからである。それでも彼等は蟻のような熱意を抱いて山間地を開墾して、サツマイモや大豆を植え、狭い農地を少しでも多く広げようとカを注いだ。あらゆる点で急ぎ過ぎたため、所々でぎこちない点も多かったけれど、熱意を注げば注ぐ程に発展の速度も早かった。
しかし、労働力には限界があったし、これは熱心にやっても生計が保証されるような仕事ではなかった。そこで、指導者たちを中心にして、少しでも所得を延ばして行ける方法や対策が話し合われたが、あらゆる事が思い通りにならなくて、ほぞを噛まされてばかりいた。

*財団法人としての出発
戦後の混乱と、第一・第二共和国の崩壊、そして四・一九革命と五・一六軍事クーデターなど、立て続く社会的混乱の中でも彼等は自立の熱意を曲げずに最善を尽くした。一九六一年四月十七日に村の指導者であるユン・ボン氏が院長となって、彼等が耕した農耕地を財団法人として登録し、当局の政策にしたがって現地に定着する事にした。もちろん他の地域と同じように、陽性患者は全て国立病院へ移送させて、健康で労働力のある住民たちだけが現地に残った。共同生活を通して財産を一括して管理しながら、集団労働によって彼等は人が不可能と考えるような仕事を黙々とこなして行った。トウガラシやタマネギ等を栽培して所得を延ばし、その一方では田んぽにも麦を植えて農耕地を最大限に活用しながら、近隣の村でも試みられなかった連作も行なう事によって、ようやく生計を繋いで行く事ができた。

*畜産実の始まりとブロイラー飼育
限られた農耕地を耕して侍られる所得はたかがしれた物だったが、彼等は当局からも勧められていた畜産業を始めるために、一九六八年には一家屋あたり五百ウォンずつ出資して畜産組合を構成し、肥料会社と孵化場などでの協力を受けながら養鶏業を始めた。どこからも飼育に関する知識を得た事もなく、家畜の生理について何も知らなかったが、いろいろな所から資料を収集し籍間も受けながら、本格的に事業に着手し出した。大雑把に建てた畜舎にケージなど考えないままヒヨコを入れ、それらと一緒に寝食を共にしながら始めた養鶏業は、これといって大きな困難もなく育って行った。人に真心をもって尽くすようにヒヨコの世話をし、またそれが大きくなって行く姿を見るのは、彼等にとっても生命の不思議さを感じさせ、さらに意欲的に働いて行こうと考えるためのよい契機となった。一時はほとんど足を向ける事のなかった一般の人たちの中から、肥料会社の職員たちが一人二人と村へ足を向けるようになり、それとともに東震農園の姿が少しずつ外の世界に紹介される事によって、人々の認識もだんだんと改まって行った。
一九七〇年代の初めになると、工業化の波が全国的に押しよせて釆て、国民所得もそれにつれて高くなった。毎年、春になるたびに味わわされた春窮期もなくなり、卵と肉の消費量も爆発的に増加し、養鶏業をする東震農園も好景気を迎えるようになった。このような好景気の中で村人の間からは、肉鶏を飼育すれば金を稼げるという意見が出始めたが、その真には実は肉鶏業者らの手練手管があったといわれている。しかし、純朴な東震農園の村人にはそんな事情はわからなかったため、一世帯につき千匹以上にもなる肉鶏を飼育しながら、もっぱら夢ばかりを膨らませていた。そして、村人の大部分が借金をして肉鶏飼育に手を伸ばして行ったが、その出荷を迎える直前になって取り引き価格が暴落し、原価にも満たないような捨て金で鶏を処分せざるをえなくなった。彼等にとって、それはまさに天が崩れ落ちるような衝撃だった。慎ましく貯めて来た金を全て投資して始めた事業だったのに、このようなひどい目に合うとは。
しかし、ちょうどこの時、東震農園に新たに移住して来た何世帯かの人々が中心となって産卵鶏事業へと転換し始めると、彼等も失意を踏み越えて、序々に産卵鶏に転換して行った。始めた当初は、わずかに五百余匹にすぎなかったが、今では村人の大部分が一万匹以上を飼育する中産層となり、確固とした位置を占めるようになった。

*養鶏が生業となって定着
東震農園は京仁地域に位置した他の定着村より、現在の状態では経済力の面で遅れを取っているが、
あらゆる面において現代的な養鶏事業技術を導入しており、意欲あふれる生活を送っている。また、現在、村では四十匹近い産卵鶏と一千余匹の豚を保有しているが、村人は皆、畜産業を天職と考えて、弛みない品種改良と近代的な肥料管理によって既存の飼育方法から脱皮しようと日々努力している。一方、いま村で一番の課題となっているのは畜舎の改良問題であるが、これも地形的に傾斜度がひどく、多くの困難に直面している現在の畜舎を漸進的に改良して行っている。
すでに百余坪を越える畜舎を建築し、一万余匹規模を一つの鶏群として飼育している世帯もいくつかあり、養鶏の景気が回復さえすれば指導者が中心となって施設を作る計画を立てている。昨年からは一部の中小企業の人々が、工場施設の入居できるように畜舎を改造して賃貸してくれるように要求しているが、彼等としては養鶏や養豚を通した畜舎の方が経済性が高いと見ている。養鶏が生業として既に主な所得源となっている以上、彼等は科学的な畜産経営を通して対外経済力を高めながら畜産業を持続して行く事だろうと思う。
現在、東震農園の百三世帯が一方月の間に消耗する肥料の量は、おおよそ千二百トンに達しているが、これらは畜産組合を通して一貫して購入しており、いろいろと有利な条件で肥料を使っている。

*対外情用度を基にして再武装
東震農園は畜産組合を構成して、組織的な畜産を初めて以来、肥料会社を始めとした畜産関連業者から高い信頼を受けて来た。しかし、近隣地域の中ではそのような東雲農園の実相を無視したまま、排斥しようとする動きもあるという。もちろん、農場の位置や規横を見ても、彼等と自信を持って接触し連帯などをして行く手が難しい点もあるのだが、そのような考え方が地域住民の中にまだ深く潜んでいるかのような印象を受けた。
東震農園のために近隣地域に住む住民たちが受けた被害もないとは言えないが、その代表的な例は畜産排水問題であろう。かなり以前から役所の方にも苦情などが出されていたが、東震農園の村人の生業と直結した問題でもあるため、この解決のために村の指導者たちもいろいろと動きまわっている。数億ウォン近い予算がかかるとされる排水浄化問題は、自分たちだけではとてもカが及ばないため、関係当局や関係業者などとの緊密な接触を通してこの問題は解決されて行かなければならないと思う。しかし、実際この畜産排水問題が解決されても、近隣の村と東震農園とが親密になる事は難しいため、より多くの理解と協力が必要であると思う.国民体育大会や各種の文化行事で起こった見るに耐えない衝突が、今後は再発しないようにお互いに信頼して協力し合って行ける風土を一日も早く定着させなくてはならないだろう。

*愛を受ける若者たち
既存世代の困難な生き方と苦痛を、誰よりも良く理解して助けて行こうとする東震農園の若者たちの横範的な生き方は、各畜産関係業者を通して幅広く知れわたっており、話題となった事もある。誠実なキリスト教信仰を基にして、東震農園の青年たちは大人たちに対して格別の愛情と真心をこめた孝行を行なっており、これは他の村々ではなかなか目にする事ができない姿である。このような著者たちが根を下ろしている東震農園の発展と跳躍は遠からずもたらされる事だろうと思う。たとえ京仁地域にある他の定着村と比べて、条件が不充分だといえども、若者たちの高い理想と誠実な姿勢には無限の可能性が含まれているといえる。彼等が隅々において人知れず努力している、純粋で誠実なその姿は、新しい東震農園を誕生させて行くための原動力になるであろうし、また、大人たちの希望の灯ともなろう。

*四十余名の児童と分校
エティンジョ村事件によって提起された二世たちの教育問題を収拾するために建てられた各地域の定着村の分校が、最近になって論争の火種となっているが、その大部分は分校の廃止論である。近い場所に学校があって登下校に便利だという利点はあるが、その一方では教育環境の不備等から父母たちが受ける心理的なストレスは相当なものであるという。最新の科学機器と活発な子供たちの夢多き表情を見れば見るほど、さらにいてもたってもいられなくなるのが定着村の父母たちの気持ちではなかろうか。もう一度言うならば、教師たちの真心と暖かな人間愛さえあれば、この問題を克服して行けると信じる父母はおそらくどこにもいないであろう。
東震農園の場合、分校で現在三十名の児童が学校生活を送っているが、彼等を指導する教師はたっ
たの三名しかいない。文教行政上の制度的な補完と修正が、切実に求められると言えよう。京仁地域の開発と共に、東震農園でもいろいろと変化が必要な時期にさしかかっているが、会長のキム・ヨン氏は近年四千九百万ウォン程度の予算を確保して他目的会館を建設し、「これを契機に東雲農園は第二の跳躍をするだろう」と強調している。
また、東震農園の核心的な行政業務を担当しているイ・ウンクォン畜産組合長も、「過去の東震農園は序々に埋められ、若い東震農園が新しく生まれる」と東震農園の潜在力を見通している。このように第二の跳耀を夢見る東震農園の明るい未来は、指導者たちの協力と和合によって切り開かれて行くだろうし、それはまた、京仁地域にある他の農場にも普及して行く要素をたくさん抱いているものと思われる。

[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

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