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龍湖農場

プサン名所に立つ養鶏団地 龍湖農場

紺碧の海から陽が上り始めると、奇岩怪石が壮観な造形美を織りなしている五六島の朝は急にあわただしくなる。遠く玄海灘の果てから飛んで来たカモメの疲れ切った鳴き声が響き合う中、暗闇と風浪に打ち勝った灯台守りの緊張感が緩み、さざめく波の上にすばらしい光景が描き出される。引き潮の時には明らかに六つだった島が、満ち潮になるとさぁっと押し寄せて来る波に一個の島が飲みこまれてしまうために五つの島になる事から名付けられた五六島と呼ばれる島々。十余尋の深さまで透んで見える海が、岩の上に止まったカモメたちの姿をゆらゆらと揺らしながら映し出している。地理的に韓国の最南端に位置する五六島は、自国人はもちろんの事、海外から我が国を尋ねて来る外国の人々からも広く知られたロマンの島である。そして、プサンと共に我が国の関門とも言えるこの五六島からわずか百余メートル南へ下った所に、大きな養鶏団地を有する龍湖農場が広がっている。この村は十余万坪の大地の上に鶏舎と一緒に粗末な家々が細々と向かい合って立っており、村の中に入ると鶏が餌をつつく音が騒がしく聞こえて来る。
一九〇九年四月、当時、大陸侵略を夢見る日帝の視線を避けながら宣教活動をしていたオーストラリアの宣教師・マッケンジー牧師が、ハンセン氏病で苦しむ兄弟たちと出会い、「相愛園」という収容施設を建てて医療奉仕活動をしたが、解放の翌年にあたる一九四六年六月に、それが現在の龍湖洞に移転した事から龍湖農場の歴史は始まった。

*相愛園から出発
「互いに愛する姿」という意味を盛り込んだ相愛園は、初代のマッケンジー牧師を始めとして、ソン・ヤンウォン牧師など十余名の教役者たちが代を次いで奉仕しながら、多くの魂を治癒し、自活能力を培って行った。日帝時代時期になるとここが閉鎖されてしまったために、多くの人々が生活の基盤を失って彷徨するという事もあったが、一九四八年七月には慶南道立癩療養所と改称して再開され、その後一九五八年六月に再び相愛園と呼ばれるようになった。五・一六軍事クーデター直後の一九六一年一月、この相愛園が国立龍湖病院に移管されると患者治療に重点が置かれるようになったため、多くの患
者たちが再活できる契機となった。そして、この定着事業が成功的な事業として評価される中、一九七五年三月三十一日に政府は龍湖病院を廃院して、ハンセン氏病から治癒した人々だけ現地に定着させるようにした。

*初代会長にパク・ウィグァン長老を選出
龍湖農場が出帆すると、村人たちは選挙を通してパク・ウィグァン長老を村の代表者として選出した。彼は十二年間、相愛教会の伝道師として、その透徹した信仰心と真心のこもった奉仕によって村人たちを導き、そして、それによって尊敬を集め、一九七〇年には長老に任じられた人物だった。彼を代表者として選らんだ龍湖農場の村人は、その情熱的な活動にカを受けて、序々に経済力を向上させ、お互いに団結して自立能力を育てて行くために努力して行った。
しかし、その時パク・ウィグァン会長の熱心な活動に歯止めをかける程、全国を騒がせた大事件が発生した。官界にまで繋がる金銭不正事件が勃発したのだ。彼はそれによって地獄の苦しみと蔑みを受け、関連する人々と共に村から追放されるという受難を味わわされた。当時、彼の行動に対しては弁明の余地はないと言われたが、私利私欲を満たすための蓄財ではなく、龍湖農場の発展と同僚たちのために長期的な対策を備えて行こうとしただけだったという事が確認されたのは後になってからの事だった。しかし、この事件の背景には、彼に気に入られた同僚たちによる政治的冒険があったという事は広く知られた事実である。
彼は結局、この事件のために、あれ程までに愛し情熱を傾けて来た龍湖農場を離れて、その後、多くの反省と痛みを耐えしのぴながら生きていたが、あえなくこの世を去ってしまった。しかし、今でも村人がいろいろな所で、崇高に生きようとした彼の姿勢を高く評価しつつ、その不運な人生に同情しているという事は、一時の誤解と間違いを解くのには充分であろうと思われる。その後は、ソン・ボンヨン氏とユン・イルソプ氏が村人から選ばれて働いているが、全ての心の痛みを洗い流し、持続的な発展を続けて行こうと地道に努力している。
龍湖農場の出帆後、最も長い間、代表者の役にまだ就いていたソン・ボンヨン会長は、来たる九月で任期を満了するが、農場発展のために全力を尽くしたその功績は消える事は永遠にないであろう。

*龍湖農場の現況
龍湖農場には現在、五百四十人世帯、千五百余名の人々が住んでいるが、国有地と農場敷地を合わせて十万三千坪もの敷地がある。プサンの関門であり名所ともなっている五六島が目の前に見える絶景に位置していながらも、個人財産としての払い下げが認められていないために、合法的な開発が行なえないでいるのが最も残念な事である。また、これといった生業手段もないまま畜産をしてるため、その大部分が零細規模であり、かつ施投が貧弱で、畜産景気の変動によって多大な影響を受けている。農場全体が生産し出す卵は一日に七十二万個と大変な分量であるが、定価を受けられない場合が多くて、実質的な所得基盤は極めてぜい弱である。したがって大部分の住民たちは、畜産規模を伸ばして行くために、現在よりさらに広い地域へ移住する事を希望しているが、プサン市当局との間でまだ円満な妥協が成されていない。

*龍湖連合株式会社
龍湖農場には全国の定着村の中で唯一、紙袋工場が設置されているが、その規模は比較的大きい方であるといえる。現在、龍湖農場からの依託経営方式で運営されており、代表者には村民のり・イルヒョン氏がなっている。一九七六年四月一日に建てられたこの工場は、建坪が四百八十坪で、製造機械が二台設置され、一日あたり七万七千枚の紙袋を生産している。ウ・イルヒョン社長を始めとして、三十四名の人員が従事しているこの工場は、これまで多くの困難と失敗を経る事を通して現在国内でもトップ
クラスの技術を保有するようになった。重要生産品は飼料用紙袋、科学用紙袋、小麦粉用紙袋、政府米用紙袋、農協用紙袋、食品用紙袋などで、配合飼料会社と相互補完的な営業をしながら、技術蓄積を通して高級紙袋加工も行なっている.この工場を通して取り引きする会社だけ見ても、配合飼料業者が六社、化学会社が七社、セメント会社が三社、食品会社が五社となっている。それまで技術開発が進まず赤字運営を強いられていた(株)龍湖連合は、昨年から経常収支が黒字状態に戻り、これからさらに大きな発展が期待されているが、まずは施設の補完が早急に求められる課題である。

*サラン飼料
わずか三年前までは龍湖農場といえば、あちこちに散らばる鶏糞の臭いのためにそのまま通りぬける事もできない村という印象であったがそんな龍湖農場で鶏糞問題が解決されたのは、一九八六年の冬の事である。日本人の久保氏と緑を結んだホン・ギボク氏が龍湖農場を訪ねて、鶏糞処理工場を設置した事によって、序々に鶏糞問題は解決されて行った。百万匹以上の鶏が排出する鶏糞を大たい二百トン程度で処理し、微生物発酵工法を通して完璧な有機肥料として作り換え、市中で販売している。龍湖農場の鶏糞公害問題を解決したサラン肥料は、久保氏の発酵処理技術を習うために、千五百坪の発酵室と研究室を設置する一方、毎月一千万ウォンの給与と共に宿食提供もしながら、発酵方法を体得して行ったという。それによって今年からは経常収支のつじつまを合わせられるようになったという.ホン・ギポク氏は今後は公害処理次元での支援と有機質肥料の使用拡大を通して、酸性土壌を中性化するための対策が必要であると強調している。「有機質肥料を農事堆肥として考えればよい」というホン社長の言う通り、現在、有機農法に対する概念を改めるような政策の立案が政府に求められていると思う。

[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

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