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韓国のハンセン病は終わった

定着村政策の立案者柳駿博士手記

韓国におけるハンセン病の始まり

大韓民国は地理的には東北アジアに位置しており、約10万平方kmの国土面積に4300万の人々が住む、5000年の歴史を有した単一民族国家です。
この地に癩病と類似した症状が記録された文献は、1251年の「郷薬救急方」が最初であり、決定的症状は1443年の世宗朝の「郷薬集成方」に記録されている。
この時期、済州島で癩病(ハンセン病)が発生したが、一般人がその伝染を恐がって痴患者との接触を強く嫌がるようになり、やがてその虐待が極に達した1445年に、世宗は済州島の邑(北済州)、大静、ジョンウィ等の3ヵ所に癩患者救療所を設置し、僧侶と薬官たちに軍役を免除して金を支給して、彼等の世話をするようにさせた。これは概に15世紀において、韓国の医科学が伝染性疾患を確認していたという事を証明するものである。1613年、医聖であるホ・ジユンの「東医実鑑」によれば、大風子油が癩病治療剤として卓越した効果がある薬品であると記録されている。この薬品は1950年代、DDSが韓国に導入され癩病治療割として広く使用される前まで癩病の唯一の治療剤だった。

外国人宣教師による救癩事業

韓国最初の近代的概念によるところの癩病院は、癩病聖教会の基金を受けて1909年にアメリカの医療宣教師ウィルソンによって光州に建てられ、その同じ年にオーストラリアの医療宣教師エルヴィンによってプサンに癩病院が設置された。ウィルソンによって光州に設置された癩病院は、1930年頃に麗水に移転して愛養院とその名称を変更し、1945年から1960年代の初めまでは1000余名以上の患者を収容し、最近では大部分の土地と施設は定着部落に委譲され、医療施設は再活病院として運営されている。
オーストラリアの宣教師エルヴィンによってプサンに設立されていた癩病院は、1911年にイギリスの宣教師マッケンジーが引き継いで経営し、第2次世界大戦中に日本の朝鮮総督府によって廃止されたが、戦後になって再開し、1945年から1960年初まで1000余名の患者を収容したが、現在、癩病院は廃止され、一般定着部落として運営されている。
1912年、救癩聖教会の支援でアメリカの医療宣教師フレッチャーによって慶尚北道・大邱に設立された愛楽癩病院は、一時は1000余名の患者を収容していたが、現在、癩病院は廃止され、50余名の快復者だけが暮らしている。

朝鮮総督府の癩政策

1916年、日本の朝鮮総督府は約200名の癩患者を収容できる慈恵癩病院を設置し、これを暫時的に拡張し、1935年には6000名から8000名の癩患者を収容できる世界最大の癩病強制収容所を設置するに至った。ここは韓国の癩患者たちの恐怖と怨恨の終点として、一度入ったら死ぬまで抜けられなかった悲劇と絶望の象徴であったが、1942年、その当時、小鹿島拡張運営の中心的人物だった院長の周防博士が、ある患者の憎みの刃によって殺された事件によって、強制収容と虐待に対する代価が払われた場所でもある。現在、ここは千名前後の寄るべない老人たちと障害がひどい人々の保護所として運営されている。しかし、この暗黒の時代においても、一般の人達にとって癩患者は恐怖と嫌い悪の象徴的存在だった。
戦後、日本の破滅による政治的弛緩期を迎えると、日本の強制収容法による鉄拳政治の下で隠れて過ごしていた癩患者たちが街頭に進出し出した事で、全国的に浮浪癩患者が社会的問題として提起された。彼等は全国的に20余個の大小の集団を形成し、流浪して物乞いする事を生存の方法としており、各集団には中心人物がいて、自分たちの区域と部下たちを支配していた。
しかし、私はこの集団を敬遠せず、彼等こそがこの国の癩病問題の本体であると捉え、また、癩病問題解決の解答を生みだすための唯一の同僚と考えて、彼等の協力を受けられるように努力した。

ハンセン病者たちの歩いた道程

過去、700余年の間、癩患者たちは周囲の全ての人々はもとより、自分の家族にまで拒まれ、甚だしくは、その生命の存在までも徹底して否定されたために、強制的に、あるいは自発的に夜中に小さな荷物一つを手にして、家を出て名前を変え、流浪しながら物乞いをするの道を歩まざるをえなかった。一度、癩病にかかれば、それまでの個人としての社会的地位や富の大小に関係なく、一生いわゆる「ムンドゥンイ」となって、恨みの多い人生の道を歩くしかなかったのである。
「韓国医学及び疾病史」を著述した前・ソウル大学歴史学教授、三木栄は「一般の人達が恐怖の疾病である癩病を極度に嫌悪し恐がったために、癩患者たちは隠遁生活をしたり、名前を変えたりして街に出て流浪しながら物乞いをしたりして命を保つのに苦労したあげく、自らの悲惨な生を終えるしかなかった。」と記しているが、このような文でも韓国癩病と癩患者たちの実態がよく表われている。
もう一つの例として、韓国の有名な癩詩人である韓何雲氏が1955年に発表した詩、「生命の歌」を紹介しようと思う。

生命の歌
過ぎ去った事も美しい
今ではムンドゥンイの生も美しい
また膿のただれも美しい
全てが花のように美しく…
花のように悲しい世の中
歳月を生きて生きながら
私は生きがいがあるのか

癩患者たちの発病年齢を調査して見ると、その80%が10才から25才の間である事がわかる。れはすなわち人間の最も重要な人格形成期に嫌悪と拒絶と肉体的な破壊を受けるという事であったため、彼等は愛という情緒を失って、失望と怨嗟と絶望の世界へと転籍させられてしまった。また、彼等は社会生活において最も重要な部分の一つである教育の機会をも喪失し、社会から徹底して拒絶される事によって人格の解体はもちろん、この世に生まれて自分自身の財産を所有してみる機会さえも持てないまま生きる事を強要されて来た。

「韓国癩予防協会」の設立

1947年、私はセプランス医科大学・微生物学教室の若い医師たちと共に、彼等に対する積極的な疫学調査をし、全国浮浪癩患者の数を約5000名として推算した。そして、私は前述した癩患者たちの「発病年齢」と共に、その浮浪癩患者の95%が労働を通して何かを生産する事ができる「体力」があるという重大な事実を見つけるに至った。彼等は唯一の生存手段だった物乞いのために1日平均6kmを歩かなければならなかったが、一方では細菌陽性保菌者でもあったため、国際的にも癩病を治療できなかったという当時の事情を考えると、国民保健上からも彼等は大変に危険な存在だった。
癩患者たちは、たとえ病気が直らなかったとしても、100名中95名が何かを生産する事ができる体力を持っており、互いに協力して愛を分け合いながら小さな協同体を構成し、物乞いの変わりに生産活動を通して生活する事ができる何らかの自立基盤を備えてあげるならば、最小限その悲劇的な癩病感染の減少はもちろん、患者自身の人間としての尊厳性をも維持できるようになり、また、国家経済にも有益であるという考えた私は、このような事業の現実化のために、まず、癩病にかかっていない一般の人の中から、何人かの同志を募り、「韓国癩予防協会」(現/大韓癩管理協会)を発起し創設すると共に、患者たちの中で特に意欲的で奉仕的な者を説得し、彼等の協同体としていわゆる「星座会」を組織する事に積極的に協力した。
当時は日帝時代のような強制収容法ではなかったが、癩患者たちを一般患者たちのように治療したりとか、癩患者たちが組織を結成するとかする行為は違法行為であったために、自然に多くの難関にぶつかるようになった。しかし、その当時、急に全国的に街に充満するようになった浮浪癩患者たちの問題がほとんど毎日のように新聞紙上に報道されるなど、深刻な社会問題になっていたために、私が推進した週末診療事業や患者免疫調査問題、患者たちの組織結成や癩協会の創設などは実際には違法だったにもかかわらずほとんど問題視されないで見過ごされた。その時、私たちはいろいろなスローガンを掲げたが、その中からいくつかを紹介しようと思う。「私たちは互いに愛し合おう」「私たちは希望を持とう」「私たちが経たこの悲劇を子供たちに味わわせないようにしよう」「努力しよう。それで物乞いの代わりに自分自身を守ろう」「成せば成る」「私たちが死ぬ時、癩病も共に死のう」等々である。
この運動こそが、私が今まで国際的に繰り広げている癩患者たちの精神再活運動の本体なのである。

希望村運動

当時、私たちが運営していた週末移動診療班は、定期的に敦岩洞の集団地を中心にしてソウル近郊や患者集団地を巡回診療していたが、始めは約200百名程度にすぎなかった数がだんだんと増加してやがて500名に至った。私たちは癩患者たちをそのまま放置せずに彼等を定着させて、物乞いの代わりに自らの労働を通して自分自身の生活を営める「集団村」を建設しようという計画を立て、その具体的な実現について同志たちと相談した結果、若い学生たちに訴える形式の街頭募金を行なうようになった。徳成女中、梨花女中、淑明女中などが参加してくれたおかげで相当額の募金が集まり、私はその基金を基にして忘憂里共同墓地に隣接した空き地に試験的に定着他の設立を計画して、敦岩洞の集団地で主日礼拝に参席し、次のように演説した。
「今から私が皆様方に提案する2つの内、いずれか一つを選らんで下さる事を願います。何を選んでも皆様の願いはすぐに実現されるように、私は皆様方を助けます。その第1は、今と同じ方法で生きる事です。流浪物乞いをしてながら梅雨時には水にはまって死んだり、冬になると凍えて死んで行く生です。第2は、自分の家を建てて畑に穀物を植え、家族と一緒にそこで暮らして神様からのお迎えを受けてこの世を去る事です。この2つの内から、どれでも好きな方を一つ選んで下さい。」
すると、全員一致で後者が選択された。私は「それならば全ての準備を終えて、2週間後にこの場所に集合されれば、私は間違いなくモーセのカナンのように、その土地に皆さんを案内致します。jと約束した。2週間後、私たちが食糧と建築資財、農器具と毛布、衣類などを積んで現地に行ってみると、500名中、約150名が集結していた。そして、彼等とともに神様に祈りを捧げ、予定されていた忘憂里共同基地の一部共有地へ行った。当時、この事業は梅雨後である8月始めに始まったため、土壁石を主材料にして仮建物を建て、秋じゃがいもと野菜を植えて近所の草を抜いて近付く冬に備えた。
これがいわゆる希望村運動の始まりだった。

そのようにしてその年の冬が過ぎて、翌年の春の事業評価後、定着村の患友たちは小鹿島に強制隔離された時の約20%の経費でも、物乞いもせずに過ごす事ができるという結果を得るようになった。当時、小鹿島ではここから「逃げる事が最大の犯罪」として苛酷な罰を受けていたが、ここ(集団地)では「退院(出ろという事)が最大の刑罰」だったという事実だけでも、当時の希望村運勤がピれほど成功であったかを推し量る事ができるであろう。
この運動の成果によって希望村運動は全国的に広がり、癩協会は全国的組織へその規模を拡張して行った。1950年の朝鮮戦争の勃発時まで全国的に16個の大小の希望村が作られ、小規模の補助でも物乞いする者もなく未来に対する希望を持って生きて行けるようになり、やがて希望村運動で定着した癩患者の数は5000名に達し、街の流浪癩患者数は顕著に減少した。

朝鮮戦争による挫折

そんな中、6.25動乱(朝鮮戦争)が起こり、この事業はいっペんに霧散してしまった.誰も彼等に関心を示せなかった動乱と共産治下での恐怖の雰囲気により患友たちはばらばらになってしまった。その時、戦争によってしばし保留されていた私のアメリカ留学は、修復と同時に進められたが、幸いだった事はアメリカに行っていろいろな癩病専門家たちに会う事ができ、ロサンゼルスのカリフォルニア大学の世界的な癩病権威者であるC.M.カーペンター博士の下で5年間、癩病研究をする事がでたという事だった。その間、世界癩病学は目をみはるような発展を成し、私も国際癩病学の中心で彼等と共に善意の競争をする事ができた。

「癩協」の再建

1955年7月8日、私はアメリカの誘惑を打ち払ってそこでの生活を清算し、多くの同僚たちが祝福してくれる中で汝矣島の飛行場に到着するやいなや、何よりもまず、その間の韓国癩事業に対して尋ねたが、答えは「それまでは戦争のために、癩事業は全く進展させるような状態ではなかった。」というものだった。そればかりではない.癩協会もたった1回の集まりも持つ事ができなかったという。しかし、私は当時の国内癩事業のこのような悲観的な状況に対しても失望しないで、これからは癩病が治る事ができる疾患になった事を説明して、近日中にとりあえず癩協再建理事会を開こうと緊急動議をし、アメリカ留学後、帰国時まで5年間、家をあけていたのだが、家へは行かないで、そのままソウル駅の食堂へ行き、「癩協再建臨時理事会」を開いた事は、今でも忘れられない一生の記憶として残っている。
1週間後の1955年7月16日、私は東亜日報に当時の国際癩病学の概念を掲載し、癩病は治癒が可能な疾病であるという事実と韓国癩病発展の具体的な方策及び、計画に対して発表したが、これは現在も韓国癩病事業の基本骨格になっていると確信している。
帰国と同時にセプランス医科大学微生物教室に韓囲最初の癩病珍療所を開設した私は、若い助手たちと一緒にDDS(癩病治療剤)の全国的普及と計画的癩病研究に着手した。私の帰国記事が新聞に掲載されると、2日後にセプランス医大微生物学教室に患者4名が訪ねて来た。そして、彼等を診察し治療したのを始めとして、立て続けに訪ねて来る彼等を拒む事もできず、教授室をそのまま外来診察室として使用するようになった。その後、方々で正式外来診療及び、研究機能を発挿する空間を模索していた中、当時、不遇な隣人の援助事業家として世界的に有名だった国際宣明会合長Bob Pierce博士の助けを受け、1959年「宣明会・特殊皮膚診療所及び、癩病研究所」を開設、毎年一定の経済援助を受けるようになり、韓国癩病発展に多くの貢献をするようになったが、これが現在の「柳駿医科学研究所」の始まりだと言えよう。癩病に対する一般の理解不足に対するいろいろな問題点を解決するために、癩病教育啓蒙プログラムが切実な事を感じ、1963年に韓国最初に癩病啓蒙月刊誌である「ソグァン」(後の「セッピッ」)を創刊するに至った。これと同時に漫画、パンフレット、ビラ等を大量に利用して、TV、ラジオ、一般の各種集会プログラムを積極的に活用した。

患者たちの反発

1962年、私はアメリカから帰国してから5年間、積極的に施行されるようになったDDS用法によって、多くの患者たちが菌陰性化治癒し、その中で多くの人々が生産的職業に従事するにおいてどんな身体障害もない事を発見、当時の保健社会部長官(最高会議保社担当)と相談し、彼等に一定額の生活基金と癩病が完全に治癒したという証拠として「癩病治癒証」を発行して、彼等に与えて本人が願うどの場所にも行って暮らせる機会を与えようという事に合意した。しかし、このような企図は結局、患者たちの暴動直前の強力な反対にぶつかって施行が保留されてしまった。その理由は療病が治癒されたという証明書があると彼等の物乞いの機会が剥奪されるというものだった。そのために私は形容する事ができないような極度の失望と悲哀を感じた。20余年間の私の癩病研究が結局、無用の長物になって、結果的には物乞いをする癩患者たちの御腕を壊す事にはならなかったが、考えればそんなに悲しむ事でもなかった。
このショックから4、5日の間はあらゆる仕事を中断して、いろいろな事を考えてみた。私が水にはまった時に運よく救けられたと仮定してみよう。水にはまって死んだらよかったのに不幸にも救いを受けたので、さぁ、その時から今度は生きる事が心配になってしまった。その時、周囲を見回して自分を救ってくれた人の他に誰もいなかったとしたら、私自身もその救ってくれた人に対して自分の包みを見なかったかと尋ねるのではないか。しかし、私は癩患者たちの生の包みを癩薗が奪ってしまう事をよく知っている。いろいろと考えた末、とにかく私の仕事が水にはまった癩患者たちを救い出している事には違いないという考えに至り、再び気力を取りもどして、彼等が失ってしまった包みを探してあげようと決心するに至った。その具体的な実践方法として以前の希望村運動をさらに科学化、企業化し、患者たちの知恵と体力を中心にして自分たちの人間回復のために幸福と繁栄をもって他人を助けられるような人生を生きられるようにする定着事業を始めた。

「定着村事業」の開始

1962年、私はセプランス医科大学微生物学教室員たちを中心に、セプランス医科大学、癩学会会員、及び経済企画院と農事産専門家たちの支援を受け、全国癩患者の実態調査を構成し、彼等の身体的能力、現居住地域の社会経済学的条件、及び自活定着環境に必要な最小限の支援などを中心に全国的規模の調査研究を政府の強力な支援の下に実施し、約2万名の患者を個別的、集団的に調査した結果、最小限彼等の中の約50%以上が癩病治癒者として労働が可能である事が明らかになった。
これに対して、私は肉体的に労働が可能な体力を所有しており、癩病が既に治癒した者に2つの提案をした。その一つは自分の故郷を含めた全国どこでも、自分が願う所へ行って自由に生きる場合、生活補助金を支給するという事と、2つ目として、いろいろな社会条件上、それが不可能な場合は、彼等がお互いに相談して小さな規模の集団村(共同村)を構成し、自らの努力によって各自の生活を有するようにというものだった。後者が提起する定着部落の実態は、1948年に私が始めた「希望村運動」の科学化、組織化された発展形であると言う事ができる。この時、前者を選らんで社会へ出たほとんど大多数の人々は、生活基金としてもらった資金を全て使い果たして、2、3カ月以内に再び昔の物乞いの姿に戻った。だが、まもなく定着事業こそが自分たちのための最善策だという確信に満ちた結論を得るようになリ、定着事業はそれによってさらに推進されて行った。この定着部落事業は政府の強力な指揮の下に推進されたが、定着村の運営は全て患友たちによる論議、決定によって進められ、政府と協会は忠告と支援と教育的な役割だけを担当した。そして、定着した農友個々人は生まれて始めて各々自らの努力の代価として財貨を手にする事ができるようになった。
今日、定着村の患友たちの生活水準が一般人の生活水準よりももずっと高い理由はここにあるといえよう。自分の財産と言える物は一銭もなく、人から投げ与えられたわずかの金や飯の塊に命を預けるしかなかった彼等にとって、自らの努力によって生じたこの財貨がどれだけ偉大で大切な物であったかは想像して余りある。

「定着村」の現在の姿

研究結果、菌陽性と表われた患友に対しては、もっと科学的で合理的な治療を実施し、現在、薗が陽性であっても将来、薗陰性治療の後に定者村へ出て行けるように備えるために、計画的な職業教育を実施した。全国に約100カ所ある定着部落には、現在(1990年)まで登録された27009名の増発病者中、9310名が暮らしている。これと同数の9000名は、彼等の2、3世で、残りの9000名はこの部落で一緒に生業に従事している一般市民たちである。定着部落には養鶏事業と養豚事業が重点的に奨励されているが、それは患者たちが癩病によって手足が不具になるのを予防する事が可能となり、機械化などによって肉体労働が少なく付加価値が高いという理由からである。
そして、現在、韓国全体の養鶏業の内の約3分の1を占有するに至り、1日100万個の卵を生産する所もたくさんある。そのような中で定着村の中には自然発生的に都市型定着事業場も発展したが、その事例は次のようなものである。
最初、忘憂里に定着し、その後、間石洞へ移転した現在の星蹊園と、城南市にあるホンイン農場は、当初は養鶏、養豚業を行なっていたが、都市の中にかなり広い空間を有していたために、地価が高くなって来ると、養鶏業を小規模工場に転換して使用し始めた。そして、中小企業体の工場を誘致して発展し始めた星蹊園では、主に織物業、時計部品、小規模機械製作などが活発に行なわれ、ホンイン農場は事務用機械、家具生産工場へと変貌して、毎日数千名の一般工場労働者たちが出入りする中、彼等のために数十台の共用バスも走らせている。過去の患友たちは現在、労働者ではなく会社の運営主として変身している。前述したように、ここには一般の企業も多数入り、工場を経営しており、団地内住民たちの生活水準は一般人よりずっと高いものになった。また、彼等が生産する農産物や工産品は一般社会で何のためらいもなく受け入れられており、癩快復者たちの社会生活の面や、彼等の子女たちが一般学校に通う事においても、一時期受けていた忌避現象などはどこにも見つける事ができないようになった。
実に様々な面にわたって希望村運動が始まった1947年から42年、定着事業の始まりから30年という長い歳月の間、忍耐を続け、血と涙が出るような努力をして来た事がようやく結晶したのだと言えよう。過去の悲惨だった姿は、もはやこれ以上、目にする事はなくなった。振り返ってみれば、苦しかった長い歳月だとも言える。しかし、この地に癩病と類似した疾病があった時期(1251年)から800余年、癩病出現の悲劇が記録(1443年)されて以来600余年、その間、癩病という名の悲劇によって犠牲になった数多くの英霊の苦しみと比べたら、どんなにか短い苦痛の時間であり、それまでこの苦しみを耐えて来た彼等の勇気と闘争の代価が、この悲劇を我が国の歴史上から永遠に終わらせるのに貢献したとするならば、これはどれほど大切で価値ある投資であろうか!
私個人としては、医学校卒業(25才)以来、今日まで、一生をかけてこの事業に従事して来ながら、自分自身を犠牲にしたとか奉仕したとかいう感情は少しもなく、むしろ、この地の最も偉大な仕事の中の一つを成す事業に私の生を捧げたという事に無限の矜持を感じる。

韓国におけるハンセン病の現在

DASONE(DSS)は1953年、Dr. R.G.COChrANEによって導入されたが、1947年、Dr. A.G.FLETCHERによって導入されたプロミンのようには広く使用されずにいた。しかし、1955年、柳駿の建議によって全国的な試薬が始まり、MDTは1982年に導入され、全国的に試薬されている。チェ・ソンジュンは55名の癩患者たちにMDTを投与した後、平均2年11カ月の間観察した結果、27MBでは再発がなかったが、28名のPBにおいては2名(7%)が各々MDT投与後、10カ月ないし20カ月に再発したと観察されている。キム・ナニは482名の癩患者たちにMDTを投与した後、5年から10年の間観察した結果、一人の再発患者も発見できなかったと報告している。
1990年現在、有病率は患者が1637名、人口1万名当たり0.3人名であり、これはWHOの1.0名以下の要求条件の約3分の1である。
発病率は1990年、新患者157名を新しく登録する事として、人口10万名当たり0.36名であり、これもWHOの要求条件の人口1.0名以下の約3分の1である。
1983年以来、継続して我が国の発病率はWHOが規定した人口10万名当たり1.0名以下を維持して来た。また、有病率も1980年以来、続けてWHOの規定内に入った。したがって韓国の千年恨だった癩病は終息したと言える。
ただ、これによって既にこの病気に感染して働けない程度に深刻な不具となり、年老いて社会に根を下ろす所がなくなった患友たちが現在直面している苦痛が度外視されてはいけない。彼等には引き続き私たちの手による保護と助けが必要である。しかし、ここで一つだけ確実に言える事は、これから生まれる私たちの子孫は癩病という恐怖から永遠に解諜されたという事実だ。

ハンセン病治癒者の定義

(1)精神再活
韓国の癩患者たち、一時は耳にするのも嫌な「ムンドゥンイ」という名前で呼ばれていた彼等は、現在、幸福で豊かに過ごしており、今や彼等は恐怖、不潔、嫌悪、不治、拒否、隔離の対象ではなく、人間としての権利を回復して自分自身を守る事ができるようになり、そればかりか他人をも助けられるようにさえなった。彼等はもはや、一般交通手段を利用するのにおいて、誰からも妨害を受けず、公衆集会に参加するのに制限を受ける事もなく、彼等の商品を一般市場に売る場合も、彼等の子女が一般学校に通う問題においても、これ以上差別を受ける事はない。彼等は全ての権利と義務を同時に負う人間として復権をしたという事である。仮に、菌陽性である初発患者だとは言っても、彼等はもはや癩菌という病菌に感染した患者として恥かしがる事も、恐怖の象徴や嫌悪、隔離の対象にもなる事はないだろう。これが私が主張する精神再活である。

(2)社会経済的再活

1988年現在の全国癩患者現況

総登録患者 27099
定着者 9301
外来 3880
保健所 10394
収容 3515
27099

1961年以後、定着事業場は約100カ所に至ったが、これは現在、暫時的に減っており、1988年現在、癩患者として登録され生存している人の総数27099名中、定着部落の居住人員は3分の1の9310名である。個別的に見ると、大概の定着部落の人口構成は、癩患者だった人が3分の1、2世、3世と一般人が各々3分の1の比率である。
1988年現在、韓国の登録患者、総27099名中、定着部落の快復者9301名と保護患者(小鹿島、安東星座園)など3515名を除けば、12825名だが、彼等は一般社会で一般人として生きる人々である。実際には定着部落の人々も一般人の範疇に属し、総登録患者27099名中、年老いて身を寄せる所もない3515名を除外した23574名は、一般社会から一般人と区別ない生活を営んでいる。これが私が目的とした癩患者の社会復帰事業の現況である。

(3)肉体的再活
WHO基準によれば、韓国は既に国家保健上、癩病が問題視される国家でない事が立証された。このような韓国癩事業が成功的に結実するまでには近代の発展した多角的な医学知識によるズルフォン剤(DDS)、REFAMPICIN、LAMPRENEの導入、MDTの採択と再活医学の導入などにカを得た所が大きかったが、韓国癩病要員たちの献身的な奉仕も見過ごされてはいけないだろう。

*癩病の治癒、癩病治癒者の規定する事を提案する。
結論として私は、精神的、社会経済的、及び肉体的の3原則から復帰した人を治癒者であると定義する。
「ここに集まった国内外の専門家の皆さん!最も劣悪な環境下で、一時代のうちに、この国が700余年の間、苦しめられて来た癩病という名の悲劇から解放され、今やそれは永遠に終息したという事を記憶してくれる事を願います。」

[原典:「韓国癩患者の人間回復と自由と福祉のために一生をかけたある人間の話」(柳駿医科学研究所発行、1991年11月、国際癩管理セミナーでのリポートより)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

文中に「癩(らい)」や「癩病」、「癩患者」などと表記されていることがあります。ハンセン病のことを癩と呼んでいた時代がありますが、「癩」には差別的な意味合いも含まれるという意見もあり、現在は「ハンセン病」としています。本ウェブサイトでは、過去の文献で表記されている場合や、著者の意向を尊重した場合など、「癩」と表記されている場合があります。「癩」という言葉は、使い方によって差別的な意味合いを含むことがありますのでご注意ください。

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